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IDEA's Afghan Tour No.7 = さらば!アンジュマン! = [Afghan Tour]

 
No.4896(So-net 2608+Diary 2288) 2019年Blog WebDiary Since 2002

コロナ禍でどこにも行けず、写真を撮りに行くことも出来ないので
IDEA's Afghan Tour を So-net にそのまま移してみました。



グレーの囲み記事は1972年当時書いた日記を書き写したもので
水色は2003年9月から10月まで Web Diary で書いたものです。



アンジュマンでのキャンプ生活も12日目が終わります。

Googleマップでアンジュマンを示しましたが、最大に拡大すると
大きな集落が見えます。そのような大きな集落は通りませんでした。

もしかしたら、Googleマップで示したアンジュマンよりも手前の
小さな湖にテントを張ったのかも知れません。



帰る日が決まったぞ。6日の朝にブルバハイ、アンジュマン!
昨日は眠れなかったな・・・あーぁ SEXしたい――

夜のヤミに関する考察:なぜ真っ暗ヤミのテントの中を見つめる事によって、ランプやテントのシワが見えてくるようになるか? それは人間の観念の世界で、ランプの存在を知っていた事で見えるという復元ではないのか? もし何もない状態で暗やみを見た場合、そこには今まで自身が体験してきた世界が目に見えるのではないのか?

次にそれに関した考察:人間の観念の、つまり頭の中で観じ見ることによって、脳裏に刻まれたFigureがその自身の全ての世界ではないだろうか。

静かだ。全く。こんなに静かな生活があったろうか? 日本でマイナスだと思いつつ生活してたあのころ。何がマイナスだったんだろう? EIJIと横浜からの帰り、今の生活はマイナスだヨって、車の中で運転しながら言ったのを覚えている。 昨日は学校は幼稚園だと思った。マイナスと幼稚園。 子供の頃、宇宙を飛び回るのが夢だと書いた。それは単に自由を求める、そして刺激を求めての永遠の旅だったのだろう。学校に今いる現実、なぜ美術大にいるんだろう? 夢と現実、自分の意志と、人間が生きる苦しさ。

自分の生まれた頃、親と子供、従業員、大きな家だった。働いてる人、ナオキ、ナオキって呼ばれていた‥‥。多少大人になって、自分が家を継ぐことになっていた。自分の生きる事って何? 若いからか?
幸せに生きていれば、出来た‥‥。単にわがままから発したものだろうか? しかし人間はもともとわがままなんだぜ。
おやじと僕、子供みたいなおやじ、いつも自分が自分がって思ってる。僕を真っ直ぐ育てようとしていた。今でも真っ直ぐさ!
高校の頃、幸せに生きてきた。なぜかって、それは何も知らなかったから。ん! それは間違ってるな。人間はいつまでたっても知らないんだ。そういう事を知らなかった。でも学校を出る時、皆んなが間違ってる事に気がついた。それを言ってもわかるヤツがいなかったのは淋しかったけれど。

今は21。自分の事をもっと知らなくては‥‥
この旅を大事にしたい。
1972年8月3日(木)キャンプ第9日目


写真は、右端の背中がタケシ、その左が通訳のA1。
左の二人は現地の遊牧民。そしてロバに乗る現地の子供。

この頃は現地の人とも仲良くなり、こんな風に一日を過ごしてました。

日記にある「ブルバハイ」は「さようなら」ですね。確か(笑)






72080402.jpg
7時起床。アンジュマンの生活にしてはなかなかの早起き。ひらくが1人で出かけていった。
ネズミをつかまえたぞ。この村に2匹の小動物がいっしょに生活することになる。
今日はつり大会だそうだ。オリンピックさんに出す写真で、今日はお魚のお料理です。

この村もあと2日。ついてから10日目の今日も、体のだるさに皆んなに負けている様子。

▲カブールに着いたら
1)KUME氏の所から荷物をもらう  2)Travelの必要最低限の物をえらび出す。
3)リュックかショルダーかを決める 4)3によりショルダーの購入を決定
5)あみやげ、AFコートなどを購入  6)Tokyoへ荷物を発送
7)5の残金よりTravel Root決定

今日のつり大会は5人で大挙して行ったにもかかわらず、大した釣果はなかったのです。(いま釣果という字で大変もめたのです)

今はハッシの時間です。いま非常にきてます。いま分を書く時間が大変かかってます。EIJIと話してます。

人間の観念の存在について、人間の頭の動きによって、その他の世界の
8月4日(金)キャンプ第10日目


写真は、A1、タケシ、村の子供3人。手につり上げた魚。EIJI、ミキ。

子供たちは本当にボロを着てますね。いまでも同じだと思います。

日記にある「オリンピック」というのは、釣り具メーカーの事でフィルムをここからもスポンサーしてもらったので、それ用の写真撮影なのです。

アンジュマンの生活もあと残りわずかです。







ゆうべの夜の事を書こう。
前のページの様にEIJIとふたりでハッシをきめていたのだ。そう9時頃だ。

はじめにミキが人を感じたのだ。そしてひらくがテントに光をあててるのを見て3人とも動き出した。僕たちは外での状況が分からず、きまりっぱなし。それから40分、Robberとの戦りつの時間だった。ショットガンは撃たれ、Soldierはライトで敵を探していた。僕はいぜん自分の世界に入り「どろぼう? 寝ようぜ、EIJI!」と言うほど。EIJIは恐怖でふるえているのだった。

今日の朝、自分だけがちがう事をやっていたのを感ぜずにはいられない。この事は「ヤンベは居直ってたんだヨ」と言われる事でわかる。別に居直ってた訳ではない。「死」というものの考え方の違い。全ての対人関係からくる物の言い方。‥‥もう何でもいいヨ!
8月5日(土)キャンプ第11日目


キャンプでの写真はこれが最後になります。
(事件があり撮影どころではなかった)
この写真は8/5にEIJIと二人でハッシで決めた時、シャッター・スピードを落として、それらしく撮りました。僕のお気に入りの1枚です。

事件はこの後に起こりました。

前年拓大のワンゲル部が強盗に襲われたのを知っていたミキが、拳銃を用意したのは単に遊びのためだったわけではなかったのです。

「Soldier」というのは通訳の事です。






今は1時である。まだアンジュマンの湖のそばに、テントをたたんで居座っている。

夕べは火を絶やさず、寝ずの番でテントを守ったのだ。10時頃まで皆んな緊張して火に当たっていた。
EIJIと僕とで1時まで守っていた。それから後の3人が交代。

今日は7時起床で出発の準備。ところが全くAFGHANという国はPoor! またMoneyでもめたのである。
僕らの決定で全員歩きでダシュトゥリ・ワートに行く事になって、荷をほどいた。今はContactを取っている。もしOKなら、明日8時に出発。NoGoodなら、今日これから歩きでブルバハイなのだ。

色々な事があったけれど、AFGHANっていう国は‥‥。昨日いや、おとといあたりから変だぜ。Robberは現れるし、馬方はバカだし。

今日は8月6日。広島の原爆記念日なのだ。EIJIが手紙を書いているヨ。
今の状況は荷を下ろして散らかっている間に、皆んながいるのだ。

Robberに関しては本当に死に接したといえば、そうなのだ。しかし、自分に死という概念があまりにも簡単なため、単に理解出来なかったのは確かだったのだ。
8月6日(日)キャンプ第12日目


アンジュマンでの最後の二日間は本当に緊張しました。
何者かが僕らのテントに近づいてきたのです。結果的にショットガンで威嚇したことが効果的だったようで、その後寝ずの番をして無事に夜明けを迎えました。

夜が明けて出発の準備に取りかかると、今度は馬方との交渉です。
結局馬方と金額で折り合いが付かず、ダシュトゥリ・ワートまで歩きで帰る事になるのです。

泥棒に襲われた次の8月6日午後1時にアンジュマンを出発し、この日は峠の手前でキャンプしたのです。






一昨日は前のページを書き終えるとすぐに出発。峠のすぐ手前でテンパる。何せキャラバン中の事、全て簡単にすませている。

そして、きのう朝9時にアンジュマン・パスに向けて出発。人間の足は速い。11時頃には峠に出ていた。途中タケシと2人で岩登り風なこともしてみた。
1時出発。荷物はA1にまかせ、我ら5人は別々に歩き。僕は一人で、パスからここ、つまり行きの3日目のキャンプ地まで快適な歩きだった。

昨日の夕べは外で寝た。それがシュラフに白いもの。霜が降りていたので驚いた。しかし体は温かかった。

今は7時。これからクソをして9時頃出発だと思う。何せキャラバン中の事、多少でも書いておきたいが、動くことの楽しさと辛さ。いろいろ書いてみたいと思う。

これからダシュトゥリ・ワートまで二日間かけて行き、10日夜にはカブールに着くのではないかと思われる。
8月8日(火)


帰りの道は下りと言うこともあり、非常に早かったのを覚えています。
6人は各自のペースで歩いてダシュトゥリ・ワートに向かうのですが、隊列が離れた事でまたミキとひらくが泥棒らしき男に襲われかけたのです。

詳しくは省きますが、アフガンとはそういう国なのです。

ところが相変わらず僕は呑気に帰りのキャラバンを楽しんでいます。






5時半起床。夕べは7時頃に着いて相当ゴタゴタした。それは10時出発という優雅な生活がたたったのだ。今日はダシュトゥリ・ワートに着く予定。これから(8時)出発でーす。

11時20分。行きの第一日目のキャンプ地まで後1時間半の地点。川に橋を架ける所に出くわした。橋と言っても丸太が1本。川の対岸(ガケと言った方が早い)を子供と犬を連れた男が川にロープを掛けている。そこに6人の男が集まってきた。これから仕事である。
なかなか始まりそうもない。さすがアフガン。色々な人が集まってきた。ジジイも、子供連れの男、これから次の村に行く行商人。
さーて始まった。3、4人の男が4、5mもある丸太を川に向かって動かしだした。丸太を川に直角にしただけで、また休憩だ。日本人が見てると言っては、僕たちのところに来ては仕事を始めない。
おっ!そろそろだ。丸太の先端にさっきのロープを結んでいる。その間にも対岸の道ではジジイ同士や、馬に乗った人、子供連れの人、道では話がはずんでいる。
丸太はロープに引かれて川を渡りだした。さっきの犬連れの男が対岸でロープを引いている。手前では5,6人の男がもう川に渡ろうとしている丸太を支えている。もうすぐだ。
ついに掛かった。対岸と手前の岸に丸太が1本かかったのである。アラーに祈りが始まり仕事もそろそろ終わりだ。
僕たちもそろそろ出発する。11時45分。
8月9日(水)


徒歩での帰りのキャラバン3日目です。山が深く谷底にあった川も、ここまで下ると道の側で流れています。
道中に出くわした丸太の橋を架ける風景を記録してるようです。

そして、行きは4日かかったキャラバンも、帰りは2日半でダシュトゥリ・ワートに到着しました。
ダシュトゥリ・ワートでゆっくりし、明日はバスでカブールに帰ります。

僕はダシュトゥリ・ワートでも、屋外でシュラフにくるまって夜露に濡れながら寝たのを覚えています。
星が本当に綺麗な夜で、アンジュマンでの生活を思い出しながら夢に誘われるように寝たのです。






我ら5人+1人はダシュトゥリ・ワートに9日の夕方5時頃着いた。
驚いた事にスーフィーの愛想のいい事。ダシュトゥリ・ワートは無事通過(皆んな気持ちよく)KABULへ。

朝5時に出発したバスは途中の村々で停まる。日が出てきた朝7時ころから、バスの屋根に出てきゃーきゃー騒いでいた。途中のブルバハール、チャリカールにはあまり長く停まらず、希望のハルブサなどはKABULまでお預けになった。
KABULに1時半到着。8時間強の長いバスを降りて、さっそくKUME氏宅へ直行。
8月10日(木)KABUL着


5時にダシュトゥリ・ワートをバスで出発した僕らですが、夜が明ける7時頃までは非常に窮屈だったのを覚えています。バスと言っても未舗装の道を狭い車の中で何時間も揺られるのは、それは大変です。

ところが日が昇って暖かくなると僕らはバスの屋根に座ったのですが、これが快適でした。
アフガンのバスは、屋根にも荷物を乗せ乗客が座って鈴なりになって走るのです。

そして道の両側から道にせり出した桑の木から走りながら桑の実を掴み取り、そんな事をするのは僕らだけなのですが、食べると美味しい事!初めて桑の実を食べました。

そして太陽が真上に昇ると僕らは車内に戻り、8時間以上かかってやっとカブールに到着したのです。
しかし(僕には)強行軍とも言えるこのバスの疲労で、後日エライ目にあうのです。








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IDEA's Afghan Tour No.6 = アフガンの警官現る! = [Afghan Tour]

 
No.4895(So-net 2607+Diary 2288) 2019年Blog WebDiary Since 2002

コロナ禍でどこにも行けず、写真を撮りに行くことも出来ないので
IDEA's Afghan Tour を So-net にそのまま移してみました。



グレーの囲み記事は1972年当時書いた日記を書き写したもので
水色は2003年9月から10月まで Web Diary で書いたものです。



アンジュマンでのキャンプ生活、4日目から8日目です。

Googleマップでアンジュマンを示しましたが、最大に拡大すると
大きな集落が見えます。そのような大きな集落は通りませんでした。

もしかしたら、Googleマップで示したアンジュマンよりも手前の
小さな湖にテントを張ったのかも知れません。


72072901.jpg
アンジュマン 現地の警官たち
朝早くからPoliceが来てブツブツ起こされた。

2,3日前から僕は一人で荷物テントに寝てる。1人でいて気持ちがいい。
昨日のパンをかじりながら、朝を楽しんでいる。
今日のdreamは北原とスキー、それも人口スキー場。そして体育館で中学校のやつとバスケットだった。
今日だったが、ギャビンの友だち(French)3人ばかり来たようだ。今日はこれまで。

彼らの友だちはなかなか良いヤツら。女の子一人と話したが、英語での会話は楽しかった。
彼女らと釣りに行ったんだ。
昼食後、エリックとギャビンは彼ら3人と一緒に出発していった。

午後はかたづけ。
1972年7月29日(土)キャンプ第4日目


写真は、29日に突然現れた現地の警官です。
代議士という話もありましたが、この中の誰かは確かではないです。
ただ印象に残ってるのは、いままで見た遊牧民と違って非常に精かんだった事です。カッコ良かったのです!

通訳のA1やミキたちと話をしてすぐに彼方に消えました。
僕らがキャンプしているアンジュマンで、前年に拓大のワンゲル部が襲われたのです。その見回りだったと思うのです。

またこの日ギャビンたちの友人が来て、その中に女の子がいました。
この地に女の人を見かけるのはもう一度、ダシュトゥリワートから乗馬で来た子を見るのですが、本当に彼らはたくましいです。
そして彼ら5人は、ワハン回廊に向けて徒歩で出かけて行き、それ以降彼らとは会おう事はありませんでした。







今、学校のスケジュールを見ていた。今、自分は旅行ということで全てを見ようとしているが、結局それではいけないのではないだろうか? つまり旅行も日本での生活もすべて同じでなくてはならないのだ。自分の生きること、その点(生活は点のつながり)を見つけ出してこそ本当なのだ。

今日は遊牧民の子供を追ってみるつもりだ。
7月30日(日)キャンプ第5日目


キャンプも5日目になり、そろそろ日記の様子が変わってきます。

ちょっと理屈が多くなってくるので、日記は読まなくていいです。(笑)

写真は現地の子供です。
フィルムを学研からもらってきたので、真面目に子供の写真を撮り続けてます。(苦笑)

標高が高いので、真夏でも寒く子供たちの格好は冬のようです。







最近ひしひしと、こういう風に日記をつけ日付を追っていくと、全てこの旅行、そして今までの自分の生活が時間という重さで返ってくるのです。

人間は一定の時間しか与えられていないことの重み。自分が今21才で、今日が7月31日の月曜だということ。

・He that reads much and travels much sees much and knows much.
・人間は何を求めているんだ?

過去の時間
7月31日(月)キャンプ第6日目


日記に英語が書いてありますが、僕はいま英語はダメです。
何を書いてるのか、正しいのかも分からないです。(苦笑)

写真は対岸の山の中腹から見たアンジュマンの様子です。
湖の近くにあるオレンジ色がテントです。

手前に遊牧民の住まいが見えます。
ヒツジや山羊の群と、岩の間に焦げ茶色でお椀を伏せたようなのが、糞を重ねて作った彼らの家です。







定着してから一週間目。今日はこれから前にそびえる5000m級の山に登る。

今は山の頂上。9時・・・・
8月1日(火)キャンプ第7日目


この日はタケシのたっての希望で、タケシ、EIJIと僕の3人で目の前にそびえる山に登りました。

5000m級。高度計があるわけではないので確かではないのですが、登るに従い息が苦しく、本当に辛かったのを覚えています。

そして日記を山にも持参したようです。
山の上で書き始めたのですが、インク切れか高度のためか「9時‥」と書いてから字が薄くなって読めません。
山の上で何を思ったのか、読んでみたかったです。







きのうは大変だった。夕方6時頃帰ってきたんだ。高度の関係で息がきつくてTopまで登りつめるのに、時間がかかり、正にヒンズークシの山だった。

一人になりたいという気持ちはまだあるよ。今は旅の途中できのう考えたんだけど、去年、東京から広島、松江~新潟での旅行での考えと今こうしてることと。
結局、同じなんじゃないかな? 考えるっていうことは人間だけ! だからすべて観念の世界なんだ。地球が平らに見えようが、宇宙は地球のまわりだけでプラネタリウムみたいであろうが、科学がいくら発達しても、その人間にとってそういう真理は、その人間に関係があることだけなのだ。だからその人間の観念の世界が問題なのだ。
8月2日(水)キャンプ第8日目


EIJIとの記念撮影。タケシが撮影しました。
下に小さくオレンジ色のテントが見えるのですが、分かりますか?

実はタケシも最近やっと連絡が取れ、忙しい中ここを見て頂いてます。
彼はいま多摩美の教授で活躍していて、今月10月の学会の準備で忙しいと言っていました。

そんなわけで彼のこの山の写真を探したのですが、残念な事にアンダーやオーバーの露出失敗でどれも良い写真がないのです。
申し訳ない!







ここに5人の日本人がAFGHANの山奥に何をしているのだろう? 今ふと思ったのだが、みんなくるってるのじゃない? 僕も含めて。全体じゃないかな。今自分自身は平気かな?

8月1日はアッコの生まれた日だって。EIJIが山の上で思い出していた。

◇カブールに帰ってからする事
 買い物:Travel Root 決定 & EIJIとの関係;
 荷物check;Tokyoへの荷物

今日テントを交換したのだ。very good !

おみやげも大変だぞ。今ちょっと考えただけでも大変。KABULで1日ですまして早くFreeになって出かけたいヨ。荷物を出来るだけ少なくして、出来るならショルダー1個にしたい。

人間にとっての旅行。今本当なら自分は学校に行かなくてはならないという現実がある。そういう現実があるにもかかわらず、今ここにこうしていられるという事は、一種の逃避ではないだろうか? 日本を出る前、逃避であることは分かっていた。それを『今、マイナスの生活をしている』と表現していた。

リクリエーション‥‥→Travel では、人が生きるということは辛く、苦しい事なのだろうか? だからスポーツとか旅行があった。人間を一種の逃避の状態において、その現実から逃れているのだろうか? その1つにLoveもあるのか? 人間が一人でいることの苦しさを相手を求める事で、愛という形で忘れていくのではないか?
8月2日(水)キャンプ第8日目


これがヒンズークシの山々です。
(正しくはヒンドゥークシュですね)
この先にカラコルム山脈、そしてヒマラヤと続きます。

この写真は800x600に画素数変更してるので分かりづらいのですが、ここにも小さくテントが写っています。









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IDEA's Afghan Tour No.5 = アンジュマンのキャンプ生活 = [Afghan Tour]

 
No.4894(So-net 2606+Diary 2288) 2019年Blog WebDiary Since 2002

コロナ禍でどこにも行けず、写真を撮りに行くことも出来ないので
IDEA's Afghan Tour を So-net にそのまま移してみました。



グレーの囲み記事は1972年当時書いた日記を書き写したもので
水色は2003年9月から10月まで Web Diary で書いたものです。



いよいよアンジュマンでのキャンプ生活が始まります。

Googleマップでアンジュマンを示しましたが、最大に拡大すると
大きな集落が見えます。そのような大きな集落は通りませんでした。

もしかしたら、Googleマップで示したアンジュマンよりも手前の
小さな湖にテントを張ったのかも知れません。



さっそくミキが釣りに行く

前のばん、雨が降って非常に寒かったヨ。

土地のガキがいっぱいくる。
1972年7月26日(水) キャンプ第1日目


アンジュマンは標高3500mくらいにある小さな湖です。

ワハン回廊へ抜ける通り道になっていて、そこかしこにアフガニスタンの遊牧民たちが、ヒツジや馬の糞の固めて作った粗末な家に暮らしています。

点在すると言っても、何キロおきに1つまた1つと、僕らの感覚からすると何もないと言ってもおかしくないほどなのです。

ところがすぐに情報が伝わって、その遊牧民の子供たちが僕らのキャンプを見に来たのです。






72080401.jpg
8月4日(金)(写真撮影日)
シャワーを沐浴をした。
今日このごろ、ペースが一定なので何をやったか思い出すのがやっと。

ミキとギャビンが釣り。

EIJIとタケシが山登り。
 
エリックとA1がひつじ探し。

僕とひらくがテント守り。

ヒツジを明日食うことに決定 
7月27日(木) キャンプ第2日目 日記の日付


写真は8月4日のものです。
キャンプ当初の写真に、キャンプ地をお見せするものがなかったので、後日の写真をもってきました。

このように湖のすぐ近くにテントを2張りし、キャンプが始まりました。
キャラバンで知り合ったフランス人二人、ギャビンとエリックもキャンプに合流しました。

二日目にしてすでに退屈が始まってますね。
うん? 明日はヒツジを食べるのですか?










朝は、はよからチョコレートパン

10時ころから、ヒツジkillだ

12時ころからFireにかけて

くった、くったヒツジちゃん

全部写真に取りました。

今日の食事は全部パンでしたよ。

あーぁ、もっと考えなくては。パーになるぞ。パーに
7月28日(金) キャンプ第3日目


これが衝撃映像です。そうでもない?(笑)

ヒツジは通訳のA1とエリックが遊牧民から買ってきました。
いくらだったかなー。忘れましたが、非常に安かったのは確かです。

ヒツジを写真のようにA1と遊牧民が首を落とし、その後の丸裸にする作業は僕らでやりました。

内臓はA1が「これはあなた方には食べれない。私が食べます」とほとんど持っていって自分で煮込んで食べてました。
いま考えると、あの内臓が一番美味しいかったのでは?







ギャビン、ミキ、タケシ、EIJI 手前の茶色のが、ヒツジちゃん

7月28日(金) キャンプ第3日目


そして、内臓を取った肉をショットガンの銃身を掃除する鉄棒に刺し、丸焼きにしました。

すると、ここでまた学習する事が起きました。
僕らはそれまで肉を食べる時によく焼いて食べていたのですが、一緒になったフランス人二人はまだ火が通るか通らない生焼けの肉をどんどん食べるのです。
これには参りました。僕らがじっくり焼いて食べようと思うと、フランス人は端から生焼け肉を食べていくのです。食べ物の恨みで、一時は険悪な雰囲気に。(ウソです。笑)

とにかく僕はこの件以来、肉はレアーで食べるようになりました。








7月28日(金) キャンプ第3日目


写真は、食後にショットガン(散弾銃)で遊ぶ僕です。

散弾銃の弾は、直径2cm長さ7cmほどの筒状の玉を一発銃身に入れて打ちます。
その弾の中に、5mmほどの細かい鉛の粒が入っていて、それが散乱して当たるのです。ですから射撃に慣れてない人でもそこそこ的に当たります。

僕らは板に人形の絵を書いて、当てる競争をしました。
まさかそれが役立つとは知らず……









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IDEA's Afghan Tour No.4 = ダシュトゥリ・ワート村からアンジュマン峠へ = [Afghan Tour]

 
No.4893(So-net 2605+Diary 2288) 2019年Blog WebDiary Since 2002

コロナ禍でどこにも行けず、写真を撮りに行くことも出来ないので
IDEA's Afghan Tour を So-net にそのまま移してみました。



グレーの囲み記事は1972年当時書いた日記を書き写したもので
水色は2003年9月から10月まで Web Diary で書いたものです。



早朝カブールをランドローバーで出発し、その日のうちに
ダシュトゥリ・ワート村に到着します。

その場所なのですが、いまはGoogleマップで見れますが
当時はその手段がなくて、場所が不確かなのです。

Googleマップでアンジュマンを示しましたが、最大に拡大すると
大きな集落が見えます。そのような大きな集落は通りませんでした。

そして、その手前に湖がいくつか見えます。

もしかしたら、Googleマップで示したアンジュマンよりも手前の
小さな湖にテントを張ったのかも知れません。



ダシュトゥリ・ワート村 通訳のA1と話すミキ
7月21日(金)(写真撮影日)
ダシュトゥリ・ワートは馬の村。昨日ランドローバーは40$+1400Af.で少々割高についた。

朝8時頃起床。昨日の初めてのCookingを思い出し、朝食。
9時馬方を集め、10時出発。

12時、ミキと馬方がもめる。

4時、Camping
1972年7月22日(土)日記の日付


地図を見て頂きたいのですが、カブールの北にチャリカールがあります。そこから右側一帯に海抜4000mを越すヒンドゥークシ山脈が横たわります。
そしてその先のタジキスタンの下に、象の鼻のように突き出たところがあります。そこはワハン回廊と呼ばれロシアの南下政策のために出来た人為的な国境地帯で、タジキスタン(パミール高原)、中国(新疆ウイグル自治区)の秘境へ抜ける道があるのです。
我々はその中国国境へ抜ける途中の、アンジュマンというところに行こうとしているのです。

我々が前日着いたダシュトゥリワートは、チャリカールから100kmほど行ったところ(オレンジの地図のバグランの「ン」の下あたり)にあり、ここから先は道が険しく、馬と徒歩でしか行けないのです。







ダシュトゥリ・ワート村
7月21日(金)(写真撮影日)




ダシュトゥリワートで一泊した我らは、馬方を雇いテントなどの荷物をランドローバーから馬に載せ換えアンジュマンに向けて出発しました。

馬の数は6頭くらいだったと思います。右手にアンジュマンにつながる川を見ながら隊列をなし、まさにキャラバンを組んで一路アンジュマンを目指すのです。







キャラバン4日目 アンジュマンpassへ
7月25日(火)(写真撮影日)
6時起床、朝食の後8時まで出発準備完了 but 馬方動かず。馬方と我々の対決。
9時出発。

10時半、馬方と我々の対立。1時間半。
12時、1人1800Af.でアンジュマン出発に決定。(1日300Af.はAfghanTouristで決定していた)

2時、昼食。多少おそいのである。

5時、馬方1日1800で元気になり、よく働く。
Camping
7月23日(日)日記の日付


アンジュマンへは7/22~25日と4日間かかって到着します。

写真と日記の日付が合いません。日記を読んで思い出したのですが、写真は担当を決め僕が最終日の25日の当番のようでした。
25日の写真しかなくて残念です。途中初日は川がすぐ側を流れ綺麗な景色があり、二日目、三日目と高度を上げるに従い、遙か下に川を見ながらガレキの道を進む景色に変わっていきます。

この写真は、このあたりからアンジュマンpass(=峠)に向けて最後の登りです。写真は午前中だと思います。天気もよくまだ快適です。

そして日記ですが、馬方との値段の交渉は最終日まで続きます。アフガンとはそういう国なのだと、思い知らされます。







キャラバン4日目 アンジュマンpassへ
7月25日(火)(写真撮影日)
7時半起床、9時出発。

だんだん高度を上げていく。
馬のローテーションで今日は1日目のEIJIの馬。非常に快適である。

午後からは非常に良かった…。
山が急なので、馬から下りて歩いたのである。ゲリを伴って、非常につらいと言うか面白かったのである。

5時Camping. 同じ場にFrance 2人がCampのためテントを貸し合同する。
非常に寒い。高度のせいだろう。
7月24日(月)日記の日付


4日間のキャラバンで、それまで乗馬の経験は皆無でしたが、馬に乗ることを覚えました。ただ馬によって良い馬と駄馬があって、ダメな馬にあたるとそれは歩かないのです。グズって前に進まないのです。あれは乗り手を見てたのでしょうか。

さて日記に「France 2人」とありますが、3日目の夕方、少し水深のある川を渡ろうと浅瀬を探していたら、フランス男二人と出会いました。 彼らは僕らが馬で来た場所まで、徒歩で来ていたのです。その装備は大きなリュック1つで、我々のキャラバンとは大違いの軽装です。 そして僕らが馬で渡った川を、フランス人は靴を脱いで素足で渡り終えたとこだったのです。 アンジュマンでもう一組のヨーロッパ人に会うのですが、彼らも軽装で、その事が僕の旅行の考え方を根本から変えたのです。






72072505.jpg
僕とタケシ
8時出発。
いよいよアンジュマンに向けて出発である。今日は僕が撮影班。

11時、pass(=峠)のまえである。我々は昼食はなし。
3時間休みの後、いよいよpassへ出発。
7月25日(火)キャラバン4日目


やっと写真が日記に追いつきました。

キャラバン最終日で、念願のアンジュマンに向けて出発です。
午前中は写真のように日ざしもあり、快適でした。

ところが高度を上げるのしたがい、本当に寒くなってくるのです。
回りには雪もあり、風も出てきてます。

疲れでも出てくるのですが、夕方には湖に着かなくてはならないので、休憩もそこそこに先を急ぎます。







ミキとタケシ

7月25日(火)キャラバン4日目


同じ昼休憩でのミキとタケシですが、見て欲しいのはミキの脇の下の拳銃です。(ホント!バカでしょ。)

出発前にカブールでミキが買ったものです。拳銃の他にショットガンも買いました。
ミキは、ここアフガニスタンに何度も来ていて事情に詳しく、僕らのガイド役でした。拳銃の購入も普通では買えないのですが、バザールの一見拳銃などない店で、交渉すると裏へ手招きされ拳銃を見せてもらい買ったのです。
僕らは興味はありましたが、半分冷ややかで彼がキャラバンの道中にトカゲを見つけては打っているのを眺めていました。
僕も拳銃を打ちました。アフガンのトカゲは全長が50cmもあり、ワニの子供かと思うほど本当にデカいんです。でも、当たらない!
3発ほど打ちましたが「玉がムダだ」とそれっきり打たせてもらえませんでした。

そんなわけで、ミキの道楽と思っていたのですが、それがそうではなかったのです。話はまたその時に書きます。








ついにアンジュマンpass!
3時半、だらだらのU字谷を登りつめ、ついにアンジュマンpassに出た!
本当に寒い。日本では暑いSUMMERだといいうのに…雪があるのです。

passからの下りは歩き。Lakeまでの途中、ずーっと歩き。つらかった~

5時、Lake到着。

馬方と1800でまたもめる。本当にアフガンはPoorなのだ。

Bass Camp
7月25日(火)キャラバン4日目


やっと峠に到着しました!
あまりいい写真ではないのでお見せしたくなかったのですが、強風で顔が歪んで誰の顔か分かりませんよね。
(25日のフィルムは全部保存状態が悪いです。ゴミの修正もしないでアップします)
そう言えば、風呂にもここ数日入ってなくて髪もボサボサ。風呂はこれから先、何週間も入らないのです。

さて、この地点で標高3500mと聞いてました。そう。富士山より高いのです。遠くに念願のアンジュマンの湖が見えます。
あともう少し。
ところが、近いようでここからが時間がかかり、湖に着いたのは5時頃で、あたりは山に囲まれているのでほとんど暗かったのです。

この日は強行軍で寒さと疲労でくたくただったので、到着してから食事の準備などする気力も起きなかったのですが、ここでタケシの一声がかかります。
「食べないと体がもたない!」とみんなを激励して、食事の準備を始めたのです。彼は山岳部に所属した事があり、山の厳しさを身をもって体験していたのです。あの時のタケシはカッコ良かったです。
僕はまた一つ学びました。









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IDEA's Afghan Tour No.3 = カブールからダシュトゥリ・ワートへ = [Afghan Tour]

 
No.4892(So-net 2604+Diary 2288) 2019年Blog WebDiary Since 2002

コロナ禍でどこにも行けず、写真を撮りに行くことも出来ないので
IDEA's Afghan Tour を So-net にそのまま移してみました。



グレーの囲み記事は1972年当時書いた日記を書き写したもので
水色は2003年9月から10月まで Web Diary で書いたものです。



カブールからチャリカール、そしてダシュトゥリ・ワートへの道順です。

カブールの位置は適当にマークしました。
チャリカールはGoogleマップにあるので、間違いないのですが

ダシュトゥリ・ワートはGoogleマップになくて不確かです。
昔はGoogleマップなどという便利なものがなかったですからね。



KUME氏宅 左からミキ、僕、タケシ、ひらく

1972年7月18日(火)


カブールで何かとお世話になったKUME氏宅で、くつろぐ僕らです。

7/7にカブール入りして始めの1週間ほどは、乾燥した空気、食事、言葉など全てが異質の世界で、緊張からか一時体調を崩したりしましたが、この頃には以前からアフガンにいたと思えるほど、写真にも余裕が伺えます。

現地人との買い物などでの会話。シギスでヨーロッパ人との会話。
いま思うと始めは緊張してました。

写真で注目なのは、僕がタバコを吸ってる事です。(笑) そして裸足。
食後の気だるい時間かな。気温は40度近いと思います。







カブール、シャビスタン・ホテル タケシ、タケシのお兄さん
19、20日の両日は買い物で終わりました。
20日朝の時点では22日出発が、今日の午前中に明日21日出発に変更されたのです。

今日は、タケシ兄がシャビスタン・ホテルに来ました。連れインド人1、日本人2。

夜は、パッキングもそこそこに8時頃KUME氏宅へ。
パッキングを11時頃終え、これからハッシできめて寝ます。
7月20日(木)


日記を見て思い出したのですが、日本からタケシのお兄さんがカブールまで来て、我々に会いに来たのです。

ずいぶん疲れた様子です。(笑)

当時海外との連絡はほとんど電話は使わなかったのですが、それでも不思議な事に「何日のどこどこに行く」という連絡が確実に取れて、このようにピンポイントで会うことが出来たのです。 同じように旅行者同士の口伝ての情報も割りと正確に伝わりました。

さて、いよいよ明日はアンジュマンに出発です!






72072101.jpg
カブール、チャリカールのハイウェイ
5時起床。モタメディ夫人の関係のランドローバーである。

6時15分、荷物を積み込み終わり。シャビスタン・ホテル前を出発。
interpreterのA1とひらくをピックアップ。

6時半、野菜市場で買い込み。

8時、アフガンの農村を一路アンジュマンへ。

11時、休憩地点チャリカール到着。A1(注)のジャンパー、塩、砂糖など購入。
私めは、布、たばこ等買い入れ。

<注:僕らが雇った通訳で、A1は僕らが付けたニックネーム>
7月21日(金)


このキャンプは、チャリカール(地図を参照)を経てダシュトゥリ・ワートまで車で行き、ダシュトゥリ・ワートから馬方を雇い馬と徒歩で数日かけてアンジュマンまで行きます。アンジュマンで何週間か滞在した後に、カブールに戻るという計画です。

写真はカブールからチャリカールへ至るハイウェイです。ハイウェイと言っても普通の舗装された道なのですが、アフガンでは舗装されている道は街と街を結ぶ生命線で、それだけでありがたいのです。(後に、無舗装の道を何日も旅行する事になる)

写真では右側に人が歩いていますが、この様に何十キロも回りに何もない道を、人や羊を連れた一団がトボトボと歩いているのです。







チャリカール近くの村 背中タケシ、顔が僕、右がEIJI
2時、途中の村を2,3通り、食事をした後

(その食事、非常に良い物を食べた。からし…)
7月21日(金)


上のinterpreterは通訳の事でtranslatorと同じ意味で書いてます。
英語を書きたがるのは、出来るだけ英語を使っていたいという気持ちの表れで、無理もないのです。

写真はチャリカールからダシュトゥリ・ワートへ向かう途中で、休憩する我らです。僕が石垣の向こうでタケシと連れションしてるので、撮影はミキだと思います。

ミキは1学年先輩なのですが、学費を自分で工面するなど大人社会で生活していたので、僕らより何年も大人びていました。遊びにかけても年長者だったのです。だから、こんな写真はミキなのです。
ミキのバカな様子はこの後の写真にも出てきます。







アンジュマンへの川
ついに、アンジュマンへの川(名前は忘れた。この川を最後まで、さかのぼっていくのだ)に出た。

ランド・ローバーは4輪駆動にしてないので、坂には非常に弱い。いくつかのトラブルがあった。

4時、ダシュトゥリ・ワートに着く。スーフィーいわく「ありがとう」

<注:スーフィーは確か、A1と同一人物だと思われる。>
7月21日(金)


上の「からし」は何を食べたんだろう? アフガンの料理はカバブ(羊肉の串刺し)など羊料理と後はナン。ナンはインドパンと同じイーストの入らないパンで、フスマ(小麦粉カス)が入っていてボソボソしてました。
後はカレー味の羊の脂ギトギトのスープとか記憶にありますが、現地ではナンもこのスープもそこそこ美味しく食べてました。

さて、ランドローバーの旅は1日だけで、多少トラブルがあったものの快適でした。写真と日記にあるようにアンジュマンへは、この川を最後まで遡ります。そして目的地は、この川の分水嶺で3500mの峠を越えた先にある湖なのです。 写真に川で遊ぶ子供たちが写っています。そして木が豊かです。水があり、木がこんなに茂っている風景はアフガンでは珍しいのです。









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IDEA's Afghan Tour No.2 = カブール市内 = [Afghan Tour]

 
No.4891(So-net 2603+Diary 2288) 2019年Blog WebDiary Since 2002

コロナ禍でどこにも行けず、写真を撮りに行くことも出来ないので
IDEA's Afghan Tour を So-netにそのまま移してみました。



グレーの囲み記事は1972年当時書いた日記を書き写したもので
水色は2003年9月から10月まで Web Diary で書いたものです。


72071101.jpg
カブール市内 薪を割る少年

1972年7月11日(火)


前日7/13からしばらく日記が飛ぶので、写真だけアップします。
写真はホテル前の朝の風景です。

この地域は外人相手のホテルやレストラン、コーラや外国製のタバコを売っている雑貨や(日本のアメリカン・ファーマシーのような店)など数多くあり、カブールの中でも小綺麗な場所でした。

そして忘れてはならないのは、流れてくる音楽です。
インドやイランの音楽を思い出してもらうと近いと思います。あの独特の音楽がどこからか流れてて、アフガニスタンの朝が始まるのです。







カブール市内 シギス中庭(レストラン)

1972年7月14日(金)


そしてこれがレストラン「シギス」の中庭です。

ここは日記にもすでに何回か書かれていますが、外人、特にヨーロッパからの旅行者のたまり場でした。

その当時は中近東の旅行がヨーロッパを中心に流行っていて、陸路イスタンブールを経由して、カブールまで主に学生たちが来るのです。ボロのワーゲンバス(まん丸い形のWマークのバン)や、フランスのドゥシボ(トタンで作ったような小型車)など、それは気楽に国内旅行の雰囲気で来るのです。その点飛行機を乗り継いでやっと来た僕らと、旅行のとらえ方が大きく違う事に驚かされるのです。

シギスでの思い出はビートルズの「アメージンググレイス」
いまではゴスペルの曲として有名で、先日の9・11でもよく流れたました。でもその当時はビートルズのオリジナルだと勘違いするほど、ここシギスでよく聞いてました。

写真では分かりませんが、手前にオープンカフェ風の椅子があり、チェスの左側の室内にテーブル席がありました。そこでは、当然のようにハシシの香りが漂い、異国にありながら「シギス」はヨーロッパだったのです。







カブールのホテル 右がタケシ。シャワーを浴びました。
体の調子がなんとか元にもどってきたのである。
昨日、今日と出発の準備で、今日はOLDバザールまで出かけて行ったのであります。

Translator(注=通訳)はあまり使えずボツに決定。残り色々手を打ってみる。

今思ってみると、なぜ体を悪くしたか? それはホテルにいて何かと自分を働かせる、緊張させるモノがなかったタメだと思うのです。ですから今日など正に快調ですヨ。

出発してから12日目。そろそろ2週間ともなると体がむずむずしてくるのがわかる。一時も早く山に入りたいものなのです。

もっとFreeになりたい。
7月15日(土)


写真は僕らがアンジュマンに出発する7月21日まで借りていたホテルです。
5人で2部屋を借りてました。

部屋の大きさはいまの狭いビジネスホテルとほとんど同じです。ベッドに小さなサイドボードがあって、それでいっぱいの大きさです。
ベッドも、写真の椅子と同じ作りでクッションはありません。
そして写真はタケシがシャワーを浴びたところですが、確か水しか出なかったと思います。

ちなみにタケシは現在、多摩美術大学の教授になっていました。旅行の後に何度か会いましたが、ここ10数年会ってないです。
このサイトを作った事を切っ掛けに連絡を取ってみようと思います。







カブール市内

7月16日(日)


写真は日記によく出てくる「KUME氏」の近所の風景です。

カブールでも外国人が住む高級住宅街で、閑静な町並みです。

KUME氏は青年海外協力隊の方で、お子様はまだおられずご夫婦でカブールにお住まいの方でした。
日本では一技術者なのですが、カブールでは高級住宅街の一軒家にメイドと住み、快適な暮らしをしてらっしゃいました。







カブールの日本大使館前にて
今日一日手紙を書いた。オキヨから手紙が見て、ゆきのからも来た。だから僕も書いた。

今日は一日何をしたかというと何もしなかった。午後に通訳さん(大学の人)と会う予定が、人が来ない。

あーぁ、ここに来て12日目だぞ。あーぁ、早くどうにかしたいよ。
7月18日(火)


いよいよアンジュマンに出発する直前で、出発の日程がまだ決まらず僕の気持ちの苛立ちが日記に出ています。

若さってこういう事なんだなと、いま読み返すと思うのです。







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IDEA's Afghan Tour=Tokyo→Bangkok→Dhaka→New Delhi→Kabul = [Afghan Tour]

 
No.4890(So-net 2602+Diary 2288) 2019年Blog WebDiary Since 2002

コロナ禍でどこにも行けず、写真を撮りに行くことも出来ないので
いままでずっとやりたいと思ったいた「IDEA's Afghan Tour」を

So-netにそのまま移してみます。ファーマットは違えど、そのままです。
単なる暇つぶし。単なる懐古趣味。お許しください。(笑)



グレーの囲み記事は1972年当時書いた日記を書き写したもので
水色は2003年9月から10月まで Web Diary で書いたものです。

また、写真はクリックして大きく見れるようにしました。


72070701.jpg
ニューデリー空港 左が僕で、右がひらく
朝On TimeでTokyoを出発。朝の模様は、、
台北、香港は暖かい街。香港はもう一度行ってみたいネ。

夜、Bangkok現地時間6:30到着(8:30)
ASIA HOTELバスで直行。部屋は$11のままの部屋。夕食時の緊張感はいまだ忘れがたく。
very tired...

Bongkokの街は、ざつ然、ワイセツ、‥‥、でも南国の夜、中国人、それで僕たちが外国人
どうすれば good なのか‥‥
まあ、それが言葉に対する恐怖をなくしてくれた。どうにかなる。ていうものよ。

その夜、shit をやって水のんで腸 悪くした。水にはくれぐれもご注意
1972年7月6日(木) Tokyo → Bangkok

これから、IDEAのアフガン旅行にお付き合い下さい。

ほとんど原文の日記と写真、そして解説で構成します。
日記は自分でも判読出来ない文字もありますが、出来るだけ忠実に書きたいと思います。

まずメンバーです。この旅行は当時多摩美術大学2年の僕と、EIJI、
3年のミキ、ひらく、タケシの5人で、計画し出掛けていきました。

当初の目的は、アフガニスタンの首都カブールから200キロほど離れた、中国国境に近いアンジュマンという湖でキャンプをする事です。
その後5人はヨーロッパ方面、東アジア方面にバラバラなり、旅行を続けるという計画でした。







ニューデリー空港 左からミキ、ひらく、タケシ
ひらくが Camera をなくした。
place and time は全然分からない。一因はミキにある。自分の荷物は自分で、自分の命は自分で。 腹は condition 悪いし、ミキは態度悪いし‥‥
まあ good ruck , Have a nice day でいこう!(機上で)

THAI AIR はダッカに到着のち、ニューデリーに現地時3:30ごろに着く。
2時間後、アリアナAIR で KABUL 6時着。

ダッカはバングラデシュの地。さすがに飛行機からは出られず、蒸し暑さを満喫したのである。 ニューデリーはインド人の街。Air port だけだが、何か異様。

アリアナのplane は日本人が何故だか多く、安心してしまった。
スチュワーデスが美人で特に目がすばらしい!

KABUL はdry air でパキスタンやインドとは全然違うわけで、
airport は山に囲まれ、その山が木のない坊主山、僕にはすばらしく映った。

その晩はミキの友人のKUME氏宅で一晩やっかりになる。
7月7日(金)Bangkok →

初日は羽田からタイ航空で飛び立ち、大阪、台北、香港のそれぞれの空港で降り、トランジットのためバンコックで1泊しました。

バンコックの夜に街に出て、僕は初めて海外を体験しました。
言葉の通じない国でのこれからの旅行を思うと、緊張感で一杯です。

翌日ダッカで降り、インドのニューデリーで飛行機をアフガニスタン・アリアナ航空に乗り換えます。

そしていよいよアフガニスタンの首都カブールに到着するのです。







カブール市内 タバコ屋の店主と少年
朝、9:00頃起きる。JAPAN EMBASSYから、Mrs.___? の U.N. にメンバー5人の顔見せである。 Mrs.___? は非常によい人。雑談の後 PM2:00頃ブラックに直行。
Money Change $1→ 84Af. $30 Change する。

バザールは色々ごちゃごちゃ。7時頃まで歩いたが、Afghanの生活がわかってきた。
マーケットからはずれた所で、KABULの普通の生活(まだわからりはしないけど)の街? 通ってみる。
外人とみて Chai をゴチソウになる我ら。バザールは明日もいってみる。チャイは1Af,

ホテルを決めた後、ヒッピーのたまり場シギスで夕食。
7月8日(土)


アフガニスタンでの生活が始まりました。

このアンジュマンでのキャンプの計画は、そもそも1年先輩のミキが前年にアフガニスタンに行って来た事から、彼らの仲間で計画が始まっていました。
僕とEIJIは1年の時から大学に籍があるものの、吉祥寺や下北沢のライブハウスに出入し仲間が増え、1年の秋には大学のキャンパスでロックコンサートを企画し、開催していました。
そんな関係でミキ、ひらく、タケシ達先輩と知り合い、僕らが2年の時には学年の違う5人が集まり、旅行する事になったのです。

アフガニスタンは当時ソ連侵攻の6年ほど前で、中国国境近くまで行くには政府の許可が必要で、そのためカブールに到着後2週間ほど日本大使館などに出向いたりして、時間を過ごす事になるのです。







カブール市内 ハルブサ売りのオヤジと子供
早朝5時頃起きてシャワーをあびる。非常につめたいが快適である。
ミルクを飲み、朝食をすませてから、(ホテルの前にシャイハナとパン屋とミルク屋がある) 10時頃買い物に出掛ける。
革カバン、アフガンコートだが、なかなか良いのがない。

昼に一度もどり朝食。(カバブが12、チャイは2Af.)をすませた後、僕は外があまり暑いので昼寝をすることにした。

午後は皮屋をもう一度見て、あまり良いのがないので、現地シャツを2枚180Af.で買ったのだ。
夕方はシギスですごす。
7月9日(日)


アフガニスタンの首都カブールは高原の非常に乾燥した街です。
カブール空港に降り立ったその瞬間、鼻の粘膜が乾いて呼吸が苦しいほどで、しばらくして鼻血が出ました。
ただ、その乾燥も慣れると快適で、外は気温が40度もあって暑いのですが、いったん木陰に入ると快適なのです。
その乾燥した土地のお陰で、ハルブサ(スイカ大のメロン)が非常に安くて美味しかったです。1つ確か2~3Af.だったと思います。毎日食べてました。
ここで通貨と物価の事を書いておくと、Af.でアフガニーと読みます。前日の日記にブラックマーケットで1ドルを84Af.で交換と書いてあるので、今の物価で1Af.=¥1.5くらいでしょうか。
ですからカバブ、つまり羊の肉の串刺しが12と書いてますので、18円になります。物価は驚くほど安いのです。







カブール市内 ホテルの部屋から、朝の風景
外人相手のパン屋が見え、手前のオヤジは朝のチャイをしてます。
その前は何か物売りの準備です。

あ~ぁ.まいった。
10日の夕方にモタメディ夫人の家でDinner Partyしていたら急にからだがColdになったのだ。
10、11、12と丸三日寝ていたのだ。寝びえ、生水だけは気を付けたまえヨ!
本当にまいった。まいった。

今日は朝から起きて(まだ多少熱っぽいのだヨ)Breakfastをして、今こうしているところ。

夕べ、Embassy of Japanの岡田氏の所でPartyを開いて、また花火をなのだ。夕食が最高でありました。
7月13日(木)


カブールに着いた日の夕方は在アフガンの日本人宅に泊まり、翌日の7/8にホテルを決めました。
ホテルと言っても僕等が泊まるのは外人相手の安い宿屋で、狭い部屋にスノコのベッドがあるだけで、確か1泊50Af.くらいだったと思います。ですから1泊75円くらいですか? とにかく物価は安いのです。(いまでも変わらないと思います)

そして、写真にあるようにホテルの目の前には、外人相手のパン屋があり、その隣りに現地の人たちが使うチャイハナがありました。
チャイハナはチャイ(お茶)を飲み、カバブ(シシカバブ=羊肉の串刺し)など軽い食事が出来ます。

そこに初めて入った僕は驚きました。
テーブルに出てきた水は白濁し、出されたカバブには飛んでいたハエが何匹もとまるのです! そしてそのハエは顔や口にもとまります。
ハエを追い払いながら食事をするのです!









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Mavic Air 2 Combo = いざとなったらこれがある!ORBITAL(オービタル)= [お店・買物]

 
No.4889(So-net 2601+Diary 2288) 2019年Blog WebDiary Since 2002



ある日

これが目にとまってしまったのです!

Mavic Air 2.jpg
Mavic Air 2は何がスゴい??ハイスペック空撮ドローンの魅力に迫る!!

1)48MP写真&4K/60fps動画
2)1080P/240fpsスローモーション
3)HDR写真/動画/パノラマ
4)8Kハイパーラプス
5)フォーカストラック
6)34分の最大飛行時間
7)10km*1080p動画伝送(日本版は6km)

といかくカメラ性能がアップしてます!
センサーサイズのアップとHDR撮影が可能になったこと!



三宅島ドローン合宿 = 竹芝から錆ヶ浜そして大路池 = 2017-08-16

僕はまだ三宅島へのドローン撮影旅を諦めてません。

このようなハイコントラストな、太陽が当たっている場所と
日陰の場所を同時に撮影するにはHDR撮影機能があれば

どれだけ助けになるか分からないのです!



写真一週間=8月の式根島断念。三宅島より遠い式根島= 2018-07-15

もちろん、式根島も同じことです。

太陽光が降りそそいでる撮影にはHDR撮影は必須なのです!(笑)

つまり!

Mavic Air 2 は買いです!



DJI Mavic Air2 Fly More Combo (JP) 最新小型ドローン 正規販売代理店
4K 60fps動画 48MP写真 8Kハイパーラプス HDR動画 Y!mobile Selection

発売日は5月21日
予約注文です!(笑)

合計金額(税込) : 132,000円
送料 : 0円
利用ポイント : 6,368ポイント
PayPay残高利用額 : 24,052円

合計金額 : 101,580円

10万円をなんとかせねば!

特別定額給付金があるけど
これはいままでのテレビなどの不足分だ。

別途になんとかせねば!(笑)



ミラーレス2台持ち=OLYMPUS E-M1 Mark II & E-M5 Mark II 2018-08-05

2年前にお世話になったオービタルさんに電話すると
GW期間中も見積り、出張買い取りをしてくれると言うじゃない!

いや、コロナ禍で逆に忙しのだそうです。
家にいて時間があるので、みなさん断捨離してる様なのです。(笑)

洋服・服飾・自転車・楽器・ホビーなどの買取ならORBITAL(オービタル)



バベルの塔??(笑)
こっちは必要な箱たちです。

買ったもののパッケージはほとんど保管しています。



こっちが売りに出すほうの山。

釣り道具はお金にならないので、引っ込めました。



5月3日に電話すると夕方来てくれると言うので

その前に、購入履歴などのリストを作成して
メールするとさっそく査定の返事が来ました。

◆仮査定 総額 97,300円◆



そのほか、いくつか加えて

結果は10万円!

おかげで、ドローン関係の整理にもなったし
ドローンなどを収納してる棚もすっきり!



三宅島に必ず行くぞ~!
そしてMavic Air 2 で同じような動画を撮るのだ~(笑)

ちなみに、10万円は
今朝アッコさんに特別定額給付金として渡しました。

彼女は何やら業者が来たことは知ってても
詳しいことは聞かないし、知らないのです。

世の中には「知らなくていいコト」があるのです。
なんちゃって。(笑)








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Fire TV Stick 4K ( Amazonスティック ) = 比較にならない進化!= [映画・TV・本]

 
No.4888(So-net 2600+Diary 2288) 2019年Blog WebDiary Since 2002



50インチテレビ、メッシュWi-Fi、BOSEスピーカーと

コロナ禍で家に籠もってテレビ三昧にはこれで完成と思われますが

まだ足りないものがある!



Fire TV Stick で出来ること=僕はこれでWOWOWをやめる!= 2016-09-08


Fire TV Stick(2015年発売モデル) (第1世代)

4年前につけたAmazonスティックです。
まだ現役で使えてはいたのですが、遅い!

何が遅いかというと、まずは起動時間です。
時間を計ったことはないですが、1分くらい

そして番組の切り替えも遅かったです。

でも番組を見始めたら、普通に視聴出来るので
こんなものかと思ってたのです。

映画などは2時間はそのままなので問題ないのです。

ところが!

AmazonスティックでAmazonミュージックを聴こうとすると
遅さゆえ操作性が悪くなり、曲やプレイリストの切り替えが悪くて

Amazonスティックはダメかもと思ってたのです。

Amazonスティック.jpg
Fire TV Stick 4K - Alexa対応音声認識リモコン付属
¥6,980

それでも、テレビ環境が新しくなったので、注文を入れました。

しかし!

一時的に在庫切れ; 入荷時期は未定です。

僕が注文したのが4月20日なのですが
この頃、他の Fire TV Stick(4K非対応¥4,980)も在庫切れでした。

ずっと在庫切れの表示だったのすが、なぜか4月末に配送の案内が来て
30日には届いたのです!(笑)

いまも在庫切れの表示ですが、たぶんコロナ禍での物流の問題か
家でのテレビ視聴が増えて需要に追いつけなくなったかです。



いま、毎朝Amazonミュージックの「ラジオステーション」で
朝のジャズを流したり、気持ちよく使ってます。(笑)

例えば

P5045274.JPG

朝起きて、テレビを付けてAmazonスティックのリモコンの
ホームボタンを押せば、すぐにコンテンツ画面になります。

それ以上に、その時によりますが
一時停止ボタンを押せば昨日の続きを流してくれます。

つまりスティック内のCPUが高速化し、メモリーが増えて
操作性が上がったのだと思います!

ところで

Alexa対応音声認識リモコンについて、こんな事をしました。

「いーぐるす ですぺらーど わやくつき」

ってマイクに言うと(「アレクサ」って頭につけなくていい)
「すいません。わかりませんでした。」

と、検索結果が出ないのです。

「いーぐるす ですぺらーど」
これだと解読してくれるけど、その検索結果はイマイチです。

ところが、テレビ(SHARP AQUOS 50V 4T-C50BN1)には
Googleログインがあって、Google音声入力に対応してます。

これで
「いーぐるす ですぺらーど わやくつき」って入れると

イーグルス デスペラード 和訳付き - YouTube

この結果が画面に表示されます。

音声入力はAmazonよりGoogleのが勝ちです!(笑)


ワカコ酒 Season5:BSテレ東

テレビでは、いま「ワカコ酒 Season5」ですが
Amazonスティックで Season1から見えるのです!

amazon.co.jp ワカコ酒を観る Prime Video

さあ、ブログも書き終わったことだし

昼酒しながら「ワカコ酒」でも見るかな(笑)







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Bose Solo 5 TV = 必要にして十分。良い買い物でした!= [お店・買物]

 
No.4887(So-net 2599+Diary 2288) 2019年Blog WebDiary Since 2002

GWで、めちゃ天気も良いのに

コロナの外出禁止で、部屋にこもってブログ書いてます。(笑)



テレビの設置、メッシュWi-Fiの設置も終わったのですが

何かやっぱり物足りない。


Amazon SHARP AQUOS 50V 4T-C50BN1


うわっ!

僕の購入時は¥125,455 でしたが、いまは¥99,800!

家電の値下がりはすごいです!

そんな事より!このテレビは

最大出力35W 2.1ch3ウェイ5スピーカー搭載
フロント オープン サウンド システム プラス


そこそこ良い音がするのです。

でも、やっぱりスピーカーが後ろにある液晶テレビの宿命で
どうしても、音が足りないのです。

そこで!


51IX+V7NPAL__AC_SL1000_.jpg

Bose Solo 5 TV sound system ワイヤレスサウンドバー
¥24,800

Amazonに注文!



さて、いかに?!



付属品はユニバーサルリモコン
電源アダプターと電源コード

光デジタル音声ケーブルが付いてます。
光ケーブルを接続するだけで、すぐに音は出ます。

ただ!

Bose Solo 5 TV には
HDMI端子がない!

どういう事かと言うと、HDMIケーブルで接続していれば
ファミリーリンクと言って、テレビのリモコンで機器の操作が出来るのです。

51EFbi15iNL__AC_SL1000_.jpg

その代わりにこんなバカでかいリモコンが付いてて

ユニバーサルリモコンと言ってこれでテレビの操作ができると言うのですが

なぜか

シャープのコード番号をリモコンに入れても、認識せず
ユニバーサルリモコンになってない!

Bose Solo 5 TV の電源とブルートゥースのオンオフのみに使ってます。

これがマイナスで、★4つです!



設置完了!

画面はAmazonスティックで、Amazonミュージックを聴いてるとこです。

最高!

やっぱり、スピーカーは前面を向いてないと!

高音の伸びはいいい、そうかと言って
ニュースなど人の声は普通に前に届きます。ちょうど良いのです!

低音も効いてて
映画のシーンではズンズンと響きます。

しかし、だからと言ってサラウンドバリバリじゃない。
ちょうど良い感じです。



部屋がミシミシ言うような大きな音で聴くわけじゃないので
ちょうど良いのです。

福ちゃんの写真スタンドを置いておいても
低音のドンドンで落ちる事もないのです。

そして、ブルートゥース接続も簡単で
ノートパソコン、タブレット、スマホどの音源も簡単に流せます。

届いた当初、朝はブルートゥースで音だけ流してましたが・・・



いまはAmazonミュージックの「ラジオステーション」で

朝のジャズを流したり、気持ちよく使ってます。(笑)



GWはテレビ&音楽でまったり過ごします。

そして、明日はAmazonスティックです!(笑)







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