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IDEA's Afghan Tour No.7 = さらば!アンジュマン! = [Afghan Tour]

 
No.4896(So-net 2608+Diary 2288) 2019年Blog WebDiary Since 2002

コロナ禍でどこにも行けず、写真を撮りに行くことも出来ないので
IDEA's Afghan Tour を So-net にそのまま移してみました。



グレーの囲み記事は1972年当時書いた日記を書き写したもので
水色は2003年9月から10月まで Web Diary で書いたものです。



アンジュマンでのキャンプ生活も12日目が終わります。

Googleマップでアンジュマンを示しましたが、最大に拡大すると
大きな集落が見えます。そのような大きな集落は通りませんでした。

もしかしたら、Googleマップで示したアンジュマンよりも手前の
小さな湖にテントを張ったのかも知れません。



帰る日が決まったぞ。6日の朝にブルバハイ、アンジュマン!
昨日は眠れなかったな・・・あーぁ SEXしたい――

夜のヤミに関する考察:なぜ真っ暗ヤミのテントの中を見つめる事によって、ランプやテントのシワが見えてくるようになるか? それは人間の観念の世界で、ランプの存在を知っていた事で見えるという復元ではないのか? もし何もない状態で暗やみを見た場合、そこには今まで自身が体験してきた世界が目に見えるのではないのか?

次にそれに関した考察:人間の観念の、つまり頭の中で観じ見ることによって、脳裏に刻まれたFigureがその自身の全ての世界ではないだろうか。

静かだ。全く。こんなに静かな生活があったろうか? 日本でマイナスだと思いつつ生活してたあのころ。何がマイナスだったんだろう? EIJIと横浜からの帰り、今の生活はマイナスだヨって、車の中で運転しながら言ったのを覚えている。 昨日は学校は幼稚園だと思った。マイナスと幼稚園。 子供の頃、宇宙を飛び回るのが夢だと書いた。それは単に自由を求める、そして刺激を求めての永遠の旅だったのだろう。学校に今いる現実、なぜ美術大にいるんだろう? 夢と現実、自分の意志と、人間が生きる苦しさ。

自分の生まれた頃、親と子供、従業員、大きな家だった。働いてる人、ナオキ、ナオキって呼ばれていた‥‥。多少大人になって、自分が家を継ぐことになっていた。自分の生きる事って何? 若いからか?
幸せに生きていれば、出来た‥‥。単にわがままから発したものだろうか? しかし人間はもともとわがままなんだぜ。
おやじと僕、子供みたいなおやじ、いつも自分が自分がって思ってる。僕を真っ直ぐ育てようとしていた。今でも真っ直ぐさ!
高校の頃、幸せに生きてきた。なぜかって、それは何も知らなかったから。ん! それは間違ってるな。人間はいつまでたっても知らないんだ。そういう事を知らなかった。でも学校を出る時、皆んなが間違ってる事に気がついた。それを言ってもわかるヤツがいなかったのは淋しかったけれど。

今は21。自分の事をもっと知らなくては‥‥
この旅を大事にしたい。
1972年8月3日(木)キャンプ第9日目


写真は、右端の背中がタケシ、その左が通訳のA1。
左の二人は現地の遊牧民。そしてロバに乗る現地の子供。

この頃は現地の人とも仲良くなり、こんな風に一日を過ごしてました。

日記にある「ブルバハイ」は「さようなら」ですね。確か(笑)






72080402.jpg
7時起床。アンジュマンの生活にしてはなかなかの早起き。ひらくが1人で出かけていった。
ネズミをつかまえたぞ。この村に2匹の小動物がいっしょに生活することになる。
今日はつり大会だそうだ。オリンピックさんに出す写真で、今日はお魚のお料理です。

この村もあと2日。ついてから10日目の今日も、体のだるさに皆んなに負けている様子。

▲カブールに着いたら
1)KUME氏の所から荷物をもらう  2)Travelの必要最低限の物をえらび出す。
3)リュックかショルダーかを決める 4)3によりショルダーの購入を決定
5)あみやげ、AFコートなどを購入  6)Tokyoへ荷物を発送
7)5の残金よりTravel Root決定

今日のつり大会は5人で大挙して行ったにもかかわらず、大した釣果はなかったのです。(いま釣果という字で大変もめたのです)

今はハッシの時間です。いま非常にきてます。いま分を書く時間が大変かかってます。EIJIと話してます。

人間の観念の存在について、人間の頭の動きによって、その他の世界の
8月4日(金)キャンプ第10日目


写真は、A1、タケシ、村の子供3人。手につり上げた魚。EIJI、ミキ。

子供たちは本当にボロを着てますね。いまでも同じだと思います。

日記にある「オリンピック」というのは、釣り具メーカーの事でフィルムをここからもスポンサーしてもらったので、それ用の写真撮影なのです。

アンジュマンの生活もあと残りわずかです。







ゆうべの夜の事を書こう。
前のページの様にEIJIとふたりでハッシをきめていたのだ。そう9時頃だ。

はじめにミキが人を感じたのだ。そしてひらくがテントに光をあててるのを見て3人とも動き出した。僕たちは外での状況が分からず、きまりっぱなし。それから40分、Robberとの戦りつの時間だった。ショットガンは撃たれ、Soldierはライトで敵を探していた。僕はいぜん自分の世界に入り「どろぼう? 寝ようぜ、EIJI!」と言うほど。EIJIは恐怖でふるえているのだった。

今日の朝、自分だけがちがう事をやっていたのを感ぜずにはいられない。この事は「ヤンベは居直ってたんだヨ」と言われる事でわかる。別に居直ってた訳ではない。「死」というものの考え方の違い。全ての対人関係からくる物の言い方。‥‥もう何でもいいヨ!
8月5日(土)キャンプ第11日目


キャンプでの写真はこれが最後になります。
(事件があり撮影どころではなかった)
この写真は8/5にEIJIと二人でハッシで決めた時、シャッター・スピードを落として、それらしく撮りました。僕のお気に入りの1枚です。

事件はこの後に起こりました。

前年拓大のワンゲル部が強盗に襲われたのを知っていたミキが、拳銃を用意したのは単に遊びのためだったわけではなかったのです。

「Soldier」というのは通訳の事です。






今は1時である。まだアンジュマンの湖のそばに、テントをたたんで居座っている。

夕べは火を絶やさず、寝ずの番でテントを守ったのだ。10時頃まで皆んな緊張して火に当たっていた。
EIJIと僕とで1時まで守っていた。それから後の3人が交代。

今日は7時起床で出発の準備。ところが全くAFGHANという国はPoor! またMoneyでもめたのである。
僕らの決定で全員歩きでダシュトゥリ・ワートに行く事になって、荷をほどいた。今はContactを取っている。もしOKなら、明日8時に出発。NoGoodなら、今日これから歩きでブルバハイなのだ。

色々な事があったけれど、AFGHANっていう国は‥‥。昨日いや、おとといあたりから変だぜ。Robberは現れるし、馬方はバカだし。

今日は8月6日。広島の原爆記念日なのだ。EIJIが手紙を書いているヨ。
今の状況は荷を下ろして散らかっている間に、皆んながいるのだ。

Robberに関しては本当に死に接したといえば、そうなのだ。しかし、自分に死という概念があまりにも簡単なため、単に理解出来なかったのは確かだったのだ。
8月6日(日)キャンプ第12日目


アンジュマンでの最後の二日間は本当に緊張しました。
何者かが僕らのテントに近づいてきたのです。結果的にショットガンで威嚇したことが効果的だったようで、その後寝ずの番をして無事に夜明けを迎えました。

夜が明けて出発の準備に取りかかると、今度は馬方との交渉です。
結局馬方と金額で折り合いが付かず、ダシュトゥリ・ワートまで歩きで帰る事になるのです。

泥棒に襲われた次の8月6日午後1時にアンジュマンを出発し、この日は峠の手前でキャンプしたのです。






一昨日は前のページを書き終えるとすぐに出発。峠のすぐ手前でテンパる。何せキャラバン中の事、全て簡単にすませている。

そして、きのう朝9時にアンジュマン・パスに向けて出発。人間の足は速い。11時頃には峠に出ていた。途中タケシと2人で岩登り風なこともしてみた。
1時出発。荷物はA1にまかせ、我ら5人は別々に歩き。僕は一人で、パスからここ、つまり行きの3日目のキャンプ地まで快適な歩きだった。

昨日の夕べは外で寝た。それがシュラフに白いもの。霜が降りていたので驚いた。しかし体は温かかった。

今は7時。これからクソをして9時頃出発だと思う。何せキャラバン中の事、多少でも書いておきたいが、動くことの楽しさと辛さ。いろいろ書いてみたいと思う。

これからダシュトゥリ・ワートまで二日間かけて行き、10日夜にはカブールに着くのではないかと思われる。
8月8日(火)


帰りの道は下りと言うこともあり、非常に早かったのを覚えています。
6人は各自のペースで歩いてダシュトゥリ・ワートに向かうのですが、隊列が離れた事でまたミキとひらくが泥棒らしき男に襲われかけたのです。

詳しくは省きますが、アフガンとはそういう国なのです。

ところが相変わらず僕は呑気に帰りのキャラバンを楽しんでいます。






5時半起床。夕べは7時頃に着いて相当ゴタゴタした。それは10時出発という優雅な生活がたたったのだ。今日はダシュトゥリ・ワートに着く予定。これから(8時)出発でーす。

11時20分。行きの第一日目のキャンプ地まで後1時間半の地点。川に橋を架ける所に出くわした。橋と言っても丸太が1本。川の対岸(ガケと言った方が早い)を子供と犬を連れた男が川にロープを掛けている。そこに6人の男が集まってきた。これから仕事である。
なかなか始まりそうもない。さすがアフガン。色々な人が集まってきた。ジジイも、子供連れの男、これから次の村に行く行商人。
さーて始まった。3、4人の男が4、5mもある丸太を川に向かって動かしだした。丸太を川に直角にしただけで、また休憩だ。日本人が見てると言っては、僕たちのところに来ては仕事を始めない。
おっ!そろそろだ。丸太の先端にさっきのロープを結んでいる。その間にも対岸の道ではジジイ同士や、馬に乗った人、子供連れの人、道では話がはずんでいる。
丸太はロープに引かれて川を渡りだした。さっきの犬連れの男が対岸でロープを引いている。手前では5,6人の男がもう川に渡ろうとしている丸太を支えている。もうすぐだ。
ついに掛かった。対岸と手前の岸に丸太が1本かかったのである。アラーに祈りが始まり仕事もそろそろ終わりだ。
僕たちもそろそろ出発する。11時45分。
8月9日(水)


徒歩での帰りのキャラバン3日目です。山が深く谷底にあった川も、ここまで下ると道の側で流れています。
道中に出くわした丸太の橋を架ける風景を記録してるようです。

そして、行きは4日かかったキャラバンも、帰りは2日半でダシュトゥリ・ワートに到着しました。
ダシュトゥリ・ワートでゆっくりし、明日はバスでカブールに帰ります。

僕はダシュトゥリ・ワートでも、屋外でシュラフにくるまって夜露に濡れながら寝たのを覚えています。
星が本当に綺麗な夜で、アンジュマンでの生活を思い出しながら夢に誘われるように寝たのです。






我ら5人+1人はダシュトゥリ・ワートに9日の夕方5時頃着いた。
驚いた事にスーフィーの愛想のいい事。ダシュトゥリ・ワートは無事通過(皆んな気持ちよく)KABULへ。

朝5時に出発したバスは途中の村々で停まる。日が出てきた朝7時ころから、バスの屋根に出てきゃーきゃー騒いでいた。途中のブルバハール、チャリカールにはあまり長く停まらず、希望のハルブサなどはKABULまでお預けになった。
KABULに1時半到着。8時間強の長いバスを降りて、さっそくKUME氏宅へ直行。
8月10日(木)KABUL着


5時にダシュトゥリ・ワートをバスで出発した僕らですが、夜が明ける7時頃までは非常に窮屈だったのを覚えています。バスと言っても未舗装の道を狭い車の中で何時間も揺られるのは、それは大変です。

ところが日が昇って暖かくなると僕らはバスの屋根に座ったのですが、これが快適でした。
アフガンのバスは、屋根にも荷物を乗せ乗客が座って鈴なりになって走るのです。

そして道の両側から道にせり出した桑の木から走りながら桑の実を掴み取り、そんな事をするのは僕らだけなのですが、食べると美味しい事!初めて桑の実を食べました。

そして太陽が真上に昇ると僕らは車内に戻り、8時間以上かかってやっとカブールに到着したのです。
しかし(僕には)強行軍とも言えるこのバスの疲労で、後日エライ目にあうのです。








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