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IDEA's Afghan Tour No.8 = カブールからバーミアン石仏へ = [Afghan Tour]

 
No.4897(So-net 2609+Diary 2288) 2019年Blog WebDiary Since 2002

コロナ禍でどこにも行けず、写真を撮りに行くことも出来ないので
IDEA's Afghan Tour を So-net にそのまま移してみました。



グレーの囲み記事は1972年当時書いた日記を書き写したもので
水色は2003年9月から10月まで Web Diary で書いたものです。

画質は悪いですが、写真はどれも拡大して見ることが出来ます。

さて、キャンプから戻った僕らは5人ばらばらになり
カブールで次の準備をして、僕はバーミアンに向かいます。




昨日はKUME氏の家でお昼を取ってから、ホテルをGREEN HOTEL に決めて、またKUME氏宅へ。
7時頃からDinner Patty。夜10時半にGREENに帰り、寝る。

今日は、皆はすでに起きて荷物の整理を12時頃までした。
そして今日はまたGREENを出るため片づけ。朝を食べたあと(クッキー、ヨーグルト、ハルブサ) 2時にGREENを出る。
ホテルをムスタファーに決め、EIJIと僕で1部屋70Af. ひらくは一人部屋で50Af. ミキ、タケシは隣りのShi-na HOTEL。2人1部屋100Af.

6時半、Littel LanternでKABUL帰着祝い。

10時寝る。
1972年8月11日(土)カブール GREEN HOTEL → ムスタファーホテル


キャンプからカブールに戻ると、荷物の整理と買い物に追われました。
そして、次の旅に出かける準備が始まります。
ホテルを代わったのは、安いホテルにするためだと思います。

Littel Lanternはカブールのチャイニーズ・レストランで、今から思うとタイ料理にも似てました。 味はさておき、麺類などはずいぶん助かった気がします。

写真はカブール到着後に撮影した、アフガニスタンの独立記念日だったと思います。広場に多くの男たちが集まっていました。(この前後の写真が少ないので、急きょスキャナーしました。)






8時に起き、シャワーを浴びた後EIJIと朝のクッキー。ライスプディング屋でA1に会う。
10時まで、僕はShi-na HOTELで洗濯。
10時半、全員Japan Embassy着。岡田氏と会って、その後EIJIと昼食。その後Shopping 途中、ひらく、タケシ、A1に会う。A1に毛皮コートを安く紹介してもらう。
僕はLong Bootsを買う。出来上がりは水曜。
その後OLDバザールで薄いカーペットを買う。
皆とはぐれた後ホテルに戻り6時頃また買い物。毛皮屋できつねのコートを30ドルで買う。明日出来る。

8時、Littel LanternでDinner。
11時、ホテルでやっと手にした手紙の返事を書く。
8月12日(日)カブール ムスタファーホテル


ロングブーツはアフガンファッションの定番で、帰国後もずいぶん愛用してました。

ブーツと当時流行った赤いアポロキャップでバイクに乗り、イージーライダーを気取ったのです。
(当時はヘルメットをしなくても、違反だったが罰金がないため、ヘルメットをしなくても大丈夫だった)






4日間ぶっ倒れた。
前のページを書いた翌日から寝込んで、まったくひどり下痢をしたものだ。今日もまだ多少残っている。

あと、3、4日でKABULを出ようと思う。今日、家に手紙を書いた。

愛と人生。今日はちょうど映画の話をしていたら、テオレマとJ・ディーンの2本の映画を思い出した。
2本とも人間の愛の問題だと思う。人を愛するという事、かなしさ‥‥
このことは、人間が生きるとい事と結びついてると思う。
結局、愛に行き、死んでいくのではないだろうか。
エデンの東のテーマソングと場面は出てくるヨ。
8月18日(金)カブール ムスタファーホテル


簡単に書いてますが、この下痢は本当にひどいものでした。
まったく水しか出ないのす。

4日間ただただ寝て、それでも食べないと死ぬと思ったのでメロンなどを食べて、また出してました。
「寝てれば直る」と人の自己回復力を願うように寝てました。

1週間後に回復したのですが、EIJI、タケシ、皆んなにはお世話になりました。







今22日の0時半。ハイバルレストランの前。やっと一人旅が始まった。今日アリアナエアーで荷物を送り出し、すべてが軽くなった。
EIJIと2人でジャシンを見てからバーミアンに行くという予定を、今日一人だけEIJIをKABULに残りして出発する事にした。今日まで1ヶ月半、皆と行動してきたこの旅行も、自分と戦う、まあちょっと寂しいが、自分の旅行が始まった。
これからバーミアン、バンデアミールから中央道をぬけてヘラートに至り、北に上がりマイアナ、マザリシャリフを回ってカブールに戻る。3週間のAfghanである。ちょっと心配なのはMapがないということ。ヘラートに至るまでの中央道がバスのないヒッチハイクになるので、地名が分からず困るのではないかと思う。まあしかし、ないものはない。ケセラセラで行くヨ。
ハイバルレストランにいればバーミアンに行く旅行者がいると思ったが、それらしきは僕だけである。

今日もEIJIと話したが、人生はGameであるという僕の持論。もう少し形がはっきりしたものにしなくてはと思う。この前からばくぜんと感じていたのだが、Gameは終わりがあってないようなもの。勝っても負けてもその後はどっちでもいい。それで笑って終わりじゃないか。一生だってそうだヨ。

ちょっと疲れた。だれかに手紙を書きたいけれど住所が分からない。誰に書こう――いま僕の気持ちに残っている女の子が多くないので驚いている。
8月22日(火)カブール出発


ひどい下痢から回復し、
キャンプから戻って12日目にやっと次の旅行に出るのです。
グレーの地図で3番目の「バーミアン」という旅です。

ところが下の日記を読むと、4番目の「アフガン国内」まで書いてます。
実は日記のように、僕はアフガン国内を一人で旅しようと夜中ハイバルレストランの前でバスを待っていたのですが、結局バスはなくこの日は出発出来なかったのです。

写真は途中で撮影したチャイハナでの風景で、旅人の手を洗っているところです。







OLDバザールから1人60Af.のバスで夜中の2時に出発。

3時にチャリカール。4時頃からデコボコ道に入る。
6時、朝食のため村に停まる。すぐ出発。12時半昼食。3時、BAMIAN着。

僕らは5Af.(Floor)のチャイハナに荷を置き、すぐ寝る。
夜の8時に起き軽く食事をした後、翌朝7時まで寝る。
8月24日(木)BAMIAN


上の日記で注目して欲しいのは、なんと地図を持たずにアフガン国内を旅行しようとしている事です。この事はこの日記を読み返してあらためて思い出しました。
なんという事でしょうね。自分でもいま驚いてます。

22日は結局バスがなく、ハイバルレストランから戻った僕は計画を練り直し、
24日にEIJIと二人でカブールを出発します。

写真はデコボコ道をバスに揺られて丸一日(本当に疲れました)、やっと見えたバーミアンの仏像のある丘です。左側に小さく石垣が見え、その左に穴が見えるのですが、その奥に仏像があります。






72082501.jpg
朝、KUME氏一行に会う。朝食を伴にしたあと、彼らはBAMIANの石像を見に出かけた。

夕方、KUME氏一行が戻り、合流して夕食。
そこにアフガニスタの村の先生がおり、佐々木氏の力で先生とこの先一緒に行くことにする。

※情報その1
BAMIANに「JAPAN」とデカデカ書いたハイエースに出会う。造形大の連中でドイツまで車を運び、中近東まで来たとのこと。車を船で運ぶのに30万円ほどかかったそうだ。
しかし「車を外地で売ることは出来ない」と言っていた。なぜなら車を外地に出したとき、輸出という形ではなく、一時持ち出しの様な形にしたらしく、その方がお金がかからないと話していた。

※決心その1  BAMIANの山の上で
2年後に僕が3年になれた時点で4年を休学し、1年間世界一周を計画し実行すること。
方法はバイクでサンフランシスコ→ニューヨーク→ロンドン→パリ→マドリッド→マラケシ→カイロ→マルセイユ→ローマ→アテネ→イスタンブール→テヘラン→カブール→アクラ→ニューデリー→カトマンズ→カルカッタ→バンコック→サイゴン→東京
8月25日(金)BAMIAN


これが有名なバーミアンの巨大石仏です。写真でその大きさが分からないかも知れませんが、全長55m(ビルの12~13階?)と言われています。それは見る者を圧倒する大きさです。
これがタリバンによって破壊されたニュースを見た時は本当に悲しい思いでした。

そして、日記には世界一周旅行の計画が書いてあります。
地図は持ってないので、頭の中に世界地図が入ってるのですね。(笑)

また日記にある「村の先生」は、この後しばらくEIJIと3人で旅をして、彼の村まで行くことになります。






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