SSブログ
Afghan Tour ブログトップ
前の10件 | -

IDEA's Afghan Tour No.13 = カトマンズ → 東京 そして「 旅行を終えて 」 = [Afghan Tour]

 
No.4902(So-net 2614+Diary 2288) 2019年Blog WebDiary Since 2002

コロナ禍でどこにも行けず、写真を撮りに行くことも出来ないので
IDEA's Afghan Tour を So-net にそのまま移してみました。



グレーの囲み記事は1972年当時書いた日記を書き写したもので
水色は2003年9月から10月まで Web Diary で書いたものです。

画質は悪いですが、写真はどれも拡大して見ることが出来ます。

キャンプから戻り僕ら5人はばらばらになり、僕は一人旅を続け
カブールからパキスタン、インドを経てカトマンズに着きました。

1972年7月6日(木)に出発した旅も10月13日(木)で
ついに終わります。長いようで短かった旅の最終回です。





28日の夕方3時頃Raxaulに着き、
国境はすぐに終わり、5時にはBinganjiに入った。
カトマンズにはゆっくり行きたかったので、ここに一泊する事になり、今日の朝8時にBinganjiを出てきた。

カトマンズ着5時過ぎ。そのままホテルをさがすため街を歩き、ここINN EDENに2.5NR(ネパールルピー)
先ず一泊する事にした。

4人部屋で、他の3人からもらったハッシが決まりだして書けなくなってきた。 Europeanの3人いるのだ。
1972年9月29日(金)KATHMANDU


インドのラクソールまで列車で、国境を越えてからはバスの移動です。

国境越えの写真がなくて残念ですが、風景は日本の段々畑そのものでした。空気もいままでのじめっと湿気を帯びた空気から、日本に近い湿度になり、通りすがりの人もインドヨーロッパ系からモンゴル系の顔に代わります。
本当にほっとしたのを覚えています。

写真は結局ずっと滞在したホテルからで、あまりカトマンズらしくないのですが、辛うじて遠くにヒマラヤ山脈が見渡せます。






今日やっと10月になった。東京では都民の日だろう。
昨日は一日ハッシぎめだった。午前中、自転車を借りて先ず日本大使館をさがした。
やっと見つけたら土、日は休み。
次にTHAI AIRで早めに帰ろうと思ったが、予約が取れず12日に決定した。

いま考えたのだが、日本大使館の付近が落ちついていて気持ちよいのである。
もしHOTELがあれば途中で移りたいと思う。

昨日、マルクをネパールルピーに替えた。10M→40NR
これで1日12NR、EXTRAに12日間で70NRという生活費になった。
最後の12日間だ。
10月1日(日)






このノートがいっぱいになり、ペンとノートを買ったので、そちらの方に書く。

全部このノートでなく残念だけど。
10月3日(火)KATHMANDU







もう10月だな。 今日このノートとペンを買ったのだ。100円もしない。
KATHMANDUの生活をなんとかこういう形で残しておきたかった。

いま多少、風邪をひいている。コルゲン・コーワもKABULで終わったし、今はハッシをひかえて、 食べ物をちゃんと取って休んでいるだけなのだ。

午後、HOTELをたずねてみたけど高いや。いなかに住む夢はやぶれた。
そして体が悪化しそうなので、HOTELに帰ってただ一生懸命に寝た。

8:00PM頃、出て行った3人のかわりに、何人か分からないが一人入ってきた。

ここは、KATHMANDUのINN EDENというHOTEL。
2階がハシシ・ショップなのだ。僕の部屋は3階で、共同部屋。
光が入ってこない暗い部屋なのだ。

今日の朝、風邪の汗がひどかったので、思い切って洗たくをしたのだ。
いま洗たく物が乾くのを待っている。
10月3日(火)KATHMANDU


写真はこれが最後です。
もっと外にもありましたが、これが最後です。

カトマンズでは、ホテルにずっといました。
2階がハシシショップで、ずっと飛んでたと思います。

この日記は帰国後も書き続けていますが、切りの良いところまで載せました。

長い間お付き合い頂き、感謝しています。
ありがとうございました。






朝食後、自転車を借りてextension visaをもらいに行く。
次に大使館に行って、本などを読みたいのだ。
午後は身体も調子よい様なので、買い物なぞ(お金がないから見るだけ)行くのだ。

最後の20マルクをNRpにした。
というのも、ひらくに頼まれた子供用のチベッタンシューズがあったので
15Nrで買ったのだ。
結論としてここでお金を出し惜しみしてるより、良い物を思い切って買った方が後で
後悔しないと思うからだ。
しかし節約の考えだけは変わらず、残ったNrはAirPortでChangeするつもりだ。
10月4日(水)KATHMANDU






10月5日だ。
それにしてもやはり、早くTokyoに帰りたいのだ。どんな理由があるという訳じゃないけれど。
1つのピリオドとして節を見つけたいのだ。

この時間の中に生きている自分というものがいかに、Tokyoで生かせるかという問題なのだが、
感覚が先行するために、どうしても行動の最先端が鈍ってくる傾向にあるのだ。―

   『意識するとは<時間>の中にいることではない』
   T・S・エリオット 『四つの四重奏』バートン・ノートン扁 第2部

   『イエスの教理は、本質的に紀律と強さを要求するものであったが、
    パウロは、それを逃避と慰めの宗教へと転化せしめたのである。』
   『宗教と反抗人』 コリン・ウイルソン

   『かくして生命は諸本質の子息であり、意志は…諸本質の祖父である。
   なんとなれば。如何なる本質といえども、意志なくして生じえぬがゆえに。』
   ヤコブ・ベーメ  『六つの見神論的要点』
10月5日(日)KATHMANDU






7日の朝、雨がふっている。きのうの夜からだ―
今何時だか分からないが早くみたい本を読んでから、また休むことにする。

もう2時近いだろう あいかわらず降っている
パンを食べて、本を読んで、2、3の考えごとをして
もう2時頃だろう まだ外は暗い。

雨のふる 雨のふる
うねる青色の地に
いつか一人 そして 又来る時
思い出の中に生き死んでいく
その時間、生きづく波の中に
そして又くり返すつながりと
何かを求めて生きさまよお

この大地に何を求めん
もしこの脚の動きを止め
ただ太陽の下に居ようものなら
地獄の苦しみに他ならぬ

もし神を愛すなら もし神を愛すなら
大地をはなれ永遠の地へと
そして苦しみと愛の地へと
旅立つだろう
            ―我、身体に捧ぐ―
10月7日(土)KATHMANDU






きのうの夜が体の全く悪い時だった。
僕は神さまと闘った。そして勝った。今朝はなんとか持ち直した。
SnowMan(外人用のレストラン)に歩いて来れるようになったのだ。
今日は一日寝ているだろう。

今日は9日、正月ではないが、あと三晩だ。

神さまが私にシタールを買わせている。
内的要求と、一つある体とが

500Nrもしたシタール。
400+時計になったけれど、日本の1万円はなくなったのだ。

バンコックも一息もつかないで帰らなくてはならない。
そして1万円になるシャツもない。
つまりこれが、内的要求するものと、相対するものの正体なのだ。
神さまに感謝しなくてはならないのだ。
10月9日(月)KATHMANDU






早朝である。体は良くなった。
後は食べ物をとって、体力をつけていけば…そして、あす、あさってである。
帰る時の着る物を考えている。決定していたのだが、今度の病気で洗濯の大変だし…

いい所を見つけた。僕のHOTELの屋上。
今日はここ数日と違って全くいい天気、
それにあと2日だと思って洗たくをしたのだ。
そして、この屋上を発見したというわけ…どうもこの万年筆。インクボタボタ
10月10日(火)KATHMANDU






KATHMANDUの最後の日の明日は荷作りなので、する事は今日中なのだ。

何の喜びもなく、何の感動もなく、そして何もなかった様に去ってゆきたい。
突然多くの事が行った様で、全く何も行ってない。1つの印象は、ここの空だけ。

今感じた事は、以前家を出た時と似た印象を持っている事。
Tokyoに戻ったら一つの変化を起こさねばならない。もうTokyoは寒いのだろうか?

     『「アウトサイダー」は時節が到来したならば
      自分の象牙の塔から出てゆかねばならない。』 C.Wilson

10月11日(水)KATHMANDU






今日、出る。不思議なもので帰りたくないという気持ちが出てくるのだ。
午前中パッキング、午後の1~2時間はフリーにしたい。時間は十分にある。

Tokyoの皆さん、僕は一人で帰ります。何のおみやげも、何の話も本当に何もない。
そう、1、2ヶ月して僕がホッとしたら、ボソボソって話すでしょう。
例えば、”カトマンズの空は山に囲まれているのだヨ”って。ごく自然に、ごく自然に!

In AirPlane
すでにインドであろうか?
山は終わり、集落が点在する平原にきている。 I'mhungry now! 食事だー

Bangkok 12時ホテル着。
一つ変なのは日本に向かっているのは分かるのだが、今まで何十年と生活してきた場に帰る気がしない。
日本という1つの国に行くという……

今、久しぶりに鏡に向かっている。自分の顔を忘れていた。
10月12日(水)KATHMANDU → Bangkok






外の世界は全く別世界である。
台北、大阪間の上空であるが、今や夕暮れとなり、雲海の上を飛ぶこの窓からは、
夜と昼との別れ目を目のあたりに見る事が出来るのである。
遠い雲の最後の世界にまだ心残りの太陽の光が、
まるで地平線に落ち沈みそれでも光を放っている太陽を表しているかの様だ。

もうそろそろ大阪であろう。東京は間近い。今は複雑な心境である。
全く人に会いたくない気持ち。
そしてこれから帰って自分の気持ち(今まで感じてきた、せねばならない事)を
行動に表そうとする意気込み。むー

家に帰ってきた。何をどう表現したらいいのか…
今は夜も遅く、疲れからか頭ががーんとしている。
今までの一人の生活が急に多くの事が入ってきて混乱している。

タケシが肝炎で9月中頃に帰国していた様子。あとは日本に変わりはない。
いまだ眠りたくはない。(眠れない)
10月13日(木)Bangkok → Tokyo





二日間の休養だった。
体は徐々に回復している。13日に体重を測ったら58キロで、
今日は60キロになった。
ここ数年来、60キロを割ったのはこれが初めてであろう。

頭の動きとしては、生活に流されまいとする意識が強く働くが、いちど知った意識というものは、 そう容易く忘れるものではない。
10月15日(日)Tokyo






x031030.jpg

 今回の旅行を終えて、このレポートを書く際にあたって、先ずはじめに書かなくてはならない事は、“全てに対する位置”である。今、自分が書こうとしているのは、旅行を終えてからの感想記でもなければ、いわゆる旅行記でもない。それは、このレポートを書くということが、1つの因果関係から来るという単純なる理由によるのであるが、つまり自分が今、現実社会に立脚している事実が、今自分自身を位置づけているということを認識しているが為に、いかにその事実を現そうかと努力しているが故のものなのである。
 旅行にもそれぞれのスタイルがあるのと同様に、人にはそれぞれの生き方がある。それは彼が感じようが感じまいが、その人間はその生き方をもってして、生きているのである。たとえば、人が何かを決定する時に、その人はいままでの自分の経験から学んだもの又、それから生じた社会的要因の分析から、1つの決定を下すのであるが、その元となる経験及び知識が、統合され、集約されたもの、又はそれらが雑多なままで一つの“かたち”を成した時に、それらはその個人の人生観となる世界観として生きて来るのである。そして、その日々の生活はそういった人生観等の内的世界から、言語等の手段を用いて、外的世界の現象に訴えかける事によって成り立っており、つまり現実の生活とは外的世界の現象の積み重ねにすぎないのである。そしてそれの現象面を人々がいかに対処するかがその人を“位置づける”唯一のものなのである。“全てに対する位置”こそが自分の書かんとする始めであり、全てであるが、しかしこのことが全くの“誤魔化しでしかない”(この事は重大な事だが)こともふまえ、それは逆に“全てに対する位置”が現象の世界をも規定(あるいは決定)するものであり、人間はその世界を逃避することが出来ない(内的世界と外的世界、二者が互いに存在して初めてその人間は生きているのである。)が為に、それを度外視して、その世界に限定して生きなければならないという宿命を持っているからである。
 そこで今回の旅行の“印象”を書いてみたいと思うが、今回の旅行は始め5人で、アフガニスタンのヒンズークシ山系のなかにある一部落に2週間ほど居りその後、5人ばらばらに各々の旅行目的を遂げるという形式であった。各々の旅行目的とは、それぞれの内的世界でのものであると思うが、僕の場合は単に「動きたい」という強い欲望であった。それは「動き」は容易に内的世界と、外的世界を結合させるということから、一種の逃避の意味も含まれていた。(人はそう年中“動いている”<一つの言い方として“熱中している”>ものではなく、その状態は正に内的世界と外的世界が対立しているのである。又、旅行とはそういった意味を持つ場合が多いのだが。)そういうことから、特に“僕自身”の外国旅行は他人にとって又、“今”において何の意味合いも持たず、そのことはこの旅行の第三者に語るということに関しても“どうでもよい事”なのである。そしてそれでも語るとすれば、残された唯一のもの“印象”しかないのである。

 カブール空港は、茶色の乾燥した山々に囲まれて静かにあった。全ての色がある一点で定着し、それ以上みだれる事のない秩序正しさを見せている。太陽は青い空間にぽつんと大きな穴を開けた様に白く輝き、周りのかたい空気にカンカンと音をたてて差し込み、私達は長い影をつくっている。空気は太陽と混ざり合い、レントゲン線が体を透き通る様に一呼吸一呼吸臓物を洗ってゆく。この針のような太陽とそれに耐えている空気、そして大地はその厳しさのなかに我が身を横たえ我々に対面する。その“景色”は依然に何らかの方法で知っていたものである。しかしそこにあるのは、コンクリートの上に建つ1つの人間であり、それを包容する自然なのだ。厳しく、美しく。

 夜は星ぞら。昼の真っ青な、雲ひとつない青空と、この今の落ちんばかりの星々と。ほんとうに暗く、そしてまっ黒な山陰が周りに座っている。その中にただ明るい所がある。裸電球が明るく、その下でカバブ屋(ヒツジの肉串刺し)のおやじさんが日本のかば焼き作りの様に火をおこし、ハルブサ(メロン)屋(くだもの屋だが、ほとんどメロンしか置いてない)の兄さんが最後の夜だと言っては客を呼んでいる。アフガニスタンの都会なのだ。電球は暗くはない。彼らの声が明るくしてしまう。彼らは夜遅くまで起きていて、ラジオを聞き茶を飲みながら仕事の話、家庭の話……茶飲み話は尽きない。そしてベッドを外に出し、星ぞらの下で夢に落ちていく。
 朝は早い。ヒツジを連れた遊牧民が都の朝を通っていく。太陽が空を白けさせる頃には道に寝ている人々は起きはじめ、かまどに火を入れる。兵隊たちが列をなし朝の行列。くだもの屋、肉屋が、パン屋が街のはじまりを始める。そしてこれほどの太陽があるかと思わせる程、ギラギラと昇りはじめる。
 オールド・バザールは喧噪としている。何故これ程に、この太陽の下でこれ程の活力があるのだろう? 彼らは生きている! 生きている事を生きている。この熱気は最低な文化人には全く理解出来ないもの。空気はほこりで白くにごり、道はつば、たん、動物のふんでいっぱい。そこに人々は店を開き、そこに人々は集まってくる。夕暮れともなると人出は最高になり、道々に人はあふれさながら祭りの様だ。車は、ボロの車はクラクションを鳴らしながら通りを通っていく。ヒツジの群れも人も一緒に、というよりもヒツジも人間もない、この熱気、この太陽の下のエネルギーに動かされていくのだ。そうして中近東の都会は一日を太陽と伴に終わらしていく。

 アフガニスタンの山、ヒンズークシの山、それは、空気と水と土から出来上がっており、そしてそれらは1つの色のリズムによって保たれている。全く茶色に支配されている世界、その中にゴウゴウと音をたてて流れるパンジシールの渓流。茶色の世界は、神々(アフガニスタンには“神々”という考え方はない。彼らの信じるのは唯一“アラー”だけだ。)の住む青色の、青しかない世界へと続く。水は地上に多少の緑を作る以外には、永遠の時間の中に流れ去っていく。そこでは、時間は意味をなさない。時間の外には自然が完全なる調和を示し、空気と水と土とが、動くもの、動物や人間さえも含みながら光のリズムの中にと生きていく。そこには“死”はない。“死”は“生”への単なる“きっかけ”に過ぎない。永遠に続く時間が唯一絶対なる神になり、自然は茶色の山々も、深々と水をたたえた湖も、そこに住む貧しい魚たちも、そして人間たちも、1つのリズムのもとに息づいている。彼らは“天”に“生”を与えられたことを感謝し、そして子供らにそれを伝える。子供は無心だ。自然に!自然に!

 車は西に太陽を求め砂漠の上をモウモウと土ぼこりをあげてスピードを出していく。太陽はすでにオレンジ色に変わり、地上に落ちる用意をしている。トラックの荷台は堅く身体は振動と土ぼこりのために、この旅行が早く終わらないものかと思っている。二日間のトラックは、あのカリフォルニアの5、6センチも分厚く積もった土ぼこりを思い出させ、ハイウェイでの旅行に決心させなかった自分を後悔させている。今、太陽のオレンジの輪はその2倍にも、3倍にも見え、下にしずむ背のゆるやかな灰色の山々を従え停止した。その時、ブレーキを強め、いっしょに運んでいた土ぼこりと伴に止まった。人々は無言のうちに、車から降りそして太陽に面して座した。あたりは、空気が太陽のオレンジに負けて白々し、空はその広さをあますことなく広げ、その終わりに山々がその色を失って、背を低くして空の終わりを示している。3、4の長い影はその中心に占めて一つの世界を作り出している。以前見たモスクでの多くの信者のそれよりも力強く、厳粛さがあたりを制した。後悔の念はもう失せていた。太陽はすばらしく、砂漠の上の儀式は自分自身の世界と、もう一つの世界を合流せしめ、文明から逃げてきた自分に生きる力を与えてくれた。そこには何ものもない、あるのはただ自然だけだ。太陽はすばらしい。太陽は依然砂漠の上に強い光を投げかけていた。

 汽車は重くけだるい午後の光の中をデリーに向けて走っていく。遠くの森はその上に葉をみせ延々と続く。空気の重さとその作り出す静けさの為に、頭は追憶の中に走る。いつもの会話、空間、音のリズム、そういった具体化されたものがいくつもいくつもよぎっていく。遠くに見える変わる事のない森、たまに見える水辺に遊ぶ牛、そして隣りに座るインド人の英語、それらが現実と今とを結び付ける唯一のもの。汽車は走る。日は既に沈み、窓には自分の影がうつる。汽車の電球は暗く、湿気が首筋を湿らし不快感をつのらせる。しかし自分の体に押し寄せてくるのは、その不快感とは逆に一つの感動である。自分の脈は静かに一定のリズムを刻み、目は自分の影を見つめる。この“時”とは反対に影の外では、森は黒く横たわり近くにある橋や小さな駅や、黒く広がる水田が瞬時に流れ去って行く。この時自分は今までの、そしてこれからの自分の存在を知ったのだ。この汽車の、そして回りの“景色”はあまりに目新しく、すばらしく、そして瞬く間に過ぎ去って行く。遠くにあるものは、あくまで落ち着き、近くはあっという間に。今、自分が体験しているものは、全てが“変化”であり、自分自身といえば“異邦人”なのだ。脈は一定のリズムを静かに強く刻み、一つの感動を伝えている。“生きている”証を伝えるがごとくに。そして汽車は闇のなかを一路デリーに向けて静かに力強く走っていく。

 人間には与えられた一定の時間しかない。その人がいかに考え、いかに行為しようとその人の一生はその時間の中で終わってしまうのである。ある故人がいかに名声や財を成したとて、それは所詮過去のものであり、ただ意味を持つとすれば、その人の名声なり財を成したという行為そのものの内にあるのである。では、行為の内にあるものとは何か? それは、その人がこの現世の現象の世界に、いかに対処しいかに闘ったかという、その人の内に有するエネルギーなのである。人間はそのエネルギーの有してる故に“生き”、“生きなければならない”のである。人が内に有してるエネルギーを感じた時、外にある全ての事柄は拒絶するなかにその存在を見いだすのではなく、その“大いなる力”によって闘わなくてはならない事に気づくだろう。
 そういった意味でも、自分はいま傍らにいる友に、その人自身の旅行(生活)を勧める。“大いなる力”の発見の為にも。
 汽車の“景色”はだまっているだけでも過ぎ去っていくのである。

1972年12月11日(月)「 旅行を終えて 」


このアフガン日記を書こうと思ったのは、たまたま写真の整理をして、したいと思っていたフィルムのデジタル化が出来上がった時でした。
ところが、始めは単に写真をお見せするつもりが、こんなページを重ねる事になってしまいました。
しかし、これは結果的に自分の再発見の旅になりました。
また読んでくださる方が声をかけて下さり、励みになりました。
最後に長文ですが、旅行後に大学に提出したレポートを載せて終わりにします。このレポートで長期欠席にもかかわらず単位を下さった平野教授始め、大学の先生方、そして一緒に旅行したミキ、ひらく、タケシそしてEIJI。皆さんに本当に感謝するばかりです。
ありがとうございました。               2003年10月30日








nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

IDEA's Afghan Tour No.12 = アフガン → パキスタン → インド = [Afghan Tour]

 
No.4901(So-net 2613+Diary 2288) 2019年Blog WebDiary Since 2002

コロナ禍でどこにも行けず、写真を撮りに行くことも出来ないので
IDEA's Afghan Tour を So-net にそのまま移してみました。



グレーの囲み記事は1972年当時書いた日記を書き写したもので
水色は2003年9月から10月まで Web Diary で書いたものです。

画質は悪いですが、写真はどれも拡大して見ることが出来ます。

キャンプから戻り僕ら5人ばらばらになり、僕は一人旅を続けます。
カブールからパキスタンへは車で、パキスタンからインドへ列車の旅です。



カブールをバスで出発しジェララバード、そしてハイバル峠を通り
アフガニスタンを出てパキスタンに入り、ペシャワールまでは車です。

パキスタンのペシャワールからラホールまでは列車なのですが
Googleマップでは、列車の検索が出来ないので道路で示しました。

パキスタンのラホールからインドのアムリツァ(アムリトサル)は
現在コロナで国境封鎖のためか、Googleで道順を示せませんでした。



やっとインドに来た。ふっーである。
20日(水)9時、KABUL出発。12時頃、JERARBAD。2時AFGHAN国境。
パキスタンの国境は時間がかかった。
時間を30分直したのです、そこを出たのが5時過ぎ。
バスでペシャワールに6時頃着いた。

着いたバス停から、ペシャワールの駅まで歩いたが、本当の駅はペシャワール・ケントという駅で、そこまでまた歩いた。

ペシャワール・ケント発22:00。ラホールには朝8:30に着いた。

ラホールに9時まで着けば、ロードパーミットは間に合うし、国境にも間に合う。
国境には11時頃着いた。それからが大変で、僕はKABULから調子が悪く、ラホールで汽車を降りてはいてしまった。ちょうどスウェーデン人と一緒で、ずいぶん助けてもらったが、国境に着いた頃はフラフラ。

国境は週に1度しか開かないので、touristやインド人でごった返していた。
やっと1時にパキスタンを出て、インドが終わったのは5時頃。
途中、先にAFGHANを出ていた北大の奥野と出会い合流した。2日分を取り返した。

今は11:30。本当に疲れた
1972年9月21日(木)AMURIZUR


アフガニスタンを出てパキスタン経て、インドへ向かいます。

陸続きで国境を超える初めての体験になるのですが、これが大変。
お国柄なのでしょうか、いつまで経っても事務が進みません。ただただ待つのです。出国と入国で4時間もかかりました。

地図を見て下さい。カブールをバスで出発しジェララバード、そしてハイバル峠を通り、アフガニスタンを出ます。
パキスタンに入り、ペシャワールからは列車でラホールに向かい、ラホールから国境を超えて、国境の隣り町アムリツァまで丸二日で移動しました。
(疲れるわけですよね。苦笑)







アムリツァ(アムリトサル)からニューデリー(3泊してる)から
アグラまで列車なのですが、分かりやすいので道路で示しました。



22日(金)、AMURIZURを昼に出る。
始めは1等に乗ったのであるが、Ticketが買えず、その時点では3等はあまりに混んでいたので、そのまま1等に乗ったのだ。そして車掌に見つかりTicketを買い2等でNewDerliに着いた。
そのまま客引きに連れられOld Derliの6Rp(ルピー)のホテルに泊まった。

23日(土)10時、僕と奥野はJALのOFFICEへ。もう一人の相棒スウェーデン人Willyは、別の所に行くのでホテルを互いに出た。僕らはJALの後、次のホテル(6Rp=共同)に泊まることにした。僕はまだ体が完全でないので、そこで寝てる事にした。ヤツは動物園へ。ホテルには、4人ほど日本人がいた。

24日(日)Sundayはどこも休み。10時頃起き、Restaurantを探したが、closedでコンノート・プレースあたりまで行った。食事の後、公園でボーとする。食後も同様。

25日(月)、今日Delriを出ることにしていた。まず、THAI AIRに行ってBookingする。その前にマルクをChageMoneyした。マルクは、それにYENは強くなったと言われるが、ここ中近東、アジアではドルでなければダメだ。マルク1ドルあたり8.75とドルの10.00に較べ全然なのだ。

Bookingのあと、2時間あまりヤツを待つが現れない。(なんとヤツはHotelの名物女に手を出してFuck!)

7時30分のAGRA行きを見つけて乗る。
学割は駅から離れた所でeasyに手に入りそれでNew Delri-Rayaul間の通しのTicketが21Rpであった。

10時AGRA着。
3等のExtra12Rpを取られる。すぐにタジマハールに直行。夜のタジマハールは言葉に表せない。 次のページを白紙にするほどだ。
9月25日(月)AMURIZUR → NEW DELRI → AGRA


インドは鉄道が発達しているので、移動はほとんど列車です。

僕とヘラートから一緒の奥野、そしてアフガン国境から一緒のスウェーデン人と3人でデリーまで来ます。
デリーは旧市街と新市街が大きく離れていて、22日に旧市街に泊まった後、スウェーデン人とはここで別れ、奥野と二人23日、24日二日間ニューデリーで過ごします。本場のカレーも食べましたよ。(笑)
Bookingとは、カトマンズから帰りの飛行機の予約だと思います。

そして、僕は彼と待ち合わせをしていたのに、2時間も待ちぼうけするのですが、聞けば2日前に知り合ったヨーロッパ人とHしてたのです。
あの時は呆れましたが、あのくらいの神経でないとヨーロッパから一人で旅行出来ないなと思いました。

そして、いよいよタジマハールのあるアグラに着きました。









前の晩、野宿する事にしたので実行。
しかし全くまいった。インドの湿気には全く閉口する。それに蚊だ。

その夜はよく眠れず、朝近くのRestaurantで朝食後、
再びタジマハールへ。再びボーとする。
9月26日(火)


前の晩、アグラに着いた奥野と僕はすぐに夜のタジマハールに向かしました。
夜のタジマハールはそれは感動的でした。

そしてその晩、その近くの公園で野宿したのですが、その湿気!
雨に降られたように、寝袋がビショビショになりました。

そして、朝のタジマハールです。






72092602.jpg

9月26日(火)


写真で見ると、さほど感じないかも知れませんが、見ていて時間が過ぎるのを忘れるほど、それは素晴らしい廟堂でした。

建物の内部も入れるのですが、思ったより小さい建物でした。

半日ほど、ここにいました。









再び一人になった。相棒は先ほどカルカッタに向けて出て行った。

そしてベナレスへの列車が2時頃だったので、そこを発つ。
3時、AGRA FORT発。
ベナレスには夜中の2時頃着くというので3等の寝台にした。
EXTRA4.5Rp取られる。

夜中2時半頃、大きな駅で「ベナレスに行くなら降りろ」という。
よく聞くとベナレスはExpressの停まる駅ではないらしい。
違うプラットホームの列車に飛び乗り、2つ目の駅がベナレスだった
9月27日(水)BENARES ( VARANASI )


そして9月の始めヘラートで出会った奥野君とここで別れました。
彼はカルカッタへ、僕はネパールへ行くためです。

僕はアグラからインドの聖地ベナレスに向かいます。

写真はベナレスへ向かう車窓、遠くにタジマハールが見えました。







今日の朝、ここの割りと高級なホテルを取る。シャワーを浴びた後、寝る。
それにしても、この湿気。
体が痒い。インドに来てからずっとだ。
10時頃起き、11時市内見物。

さっき死体焼き場。
人間の腕が薪からぬーと出てきた。

見物を終えた後、金と時間の関係からこのままベナレスを出ることにする。

Varanasi 20:50発、Muzaffapur 9:10着。
そしてRaxaul行きのプラットホームも見つかり、10時には出ると言っていた。
しかし6時頃からMuzaffapurまで、普通列車だったので朝のラッシュにはまいった。

今日中にはネパール入りするだろう。
9月28日(木)VARANASI → MUZAFFAPUR → RAXAUL


ベナレスはガンジス川西岸にあるヒンドゥー教徒の聖地で、毎年多くの巡礼者が訪れるのです。

人々はガンジス川を聖なる川と崇め、茶色に濁った水なのに、そこで体を清めます。
そして川の一角には、死者を弔う焼き場があるのです。








9月28日(木)


この写真はベナレスの街の雰囲気をお見せするために、焼き場は写っていませんが、このような川のすぐ脇で薪を高く積み、そこで死体を焼いていました。

僕は観光客用の船で見ているのですが、船頭があれが焼き場だと指さしているほど、日常的な風景のようでした。

そして、この日ベナレスを後にしてラクソールに向かいます。 いよいよ最終目的地、ネパールのカトマンズです。











nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

IDEA's Afghan Tour No.11 = ヘラート → マザリシャリフ → カブール = [Afghan Tour]

 
No.4900(So-net 2612+Diary 2288) 2019年Blog WebDiary Since 2002

コロナ禍でどこにも行けず、写真を撮りに行くことも出来ないので
IDEA's Afghan Tour を So-net にそのまま移してみました。



グレーの囲み記事は1972年当時書いた日記を書き写したもので
水色は2003年9月から10月まで Web Diary で書いたものです。

画質は悪いですが、写真はどれも拡大して見ることが出来ます。

キャンプから戻った僕ら5人ばらばらになり、僕はEIJIとも別れ
アフガニスタン国内を一人で旅を続けます。

このページで1200kmを走破し、アフガンともお別れです。





やっと着いた。まったく長かった。

3日、10:00。HERAT出発。
2時頃昼食。8時頃夕食。9時半停車。10時頃寝る。

この間の道は、中央道に比べdrainが少なく(注:意味不明です。「排水路が少なく
デコボコが少なく」の意味か?)
あっても、なだからになっている。風景としてあまりかわらず。
そして、バスに非常に詰め込む。交通機関の少ないAFGHAN、金をふんだくって詰め込むのである。

4日、3時出発。
6時停車・・・・・・・
6時半、MAIMANA着。

全く疲れた。3日の5時頃途中のQI-NAW(注:地名)から一人のスウェーデン人が同乗。
いまホテルでも一緒である。

バスの助手が全く若いヤツで、我々をからかうのである。混んでいるので、AFGHAN人といざこざが絶えず、まったくtiredだった。

MAIMANAは広い街。砂漠の真ん中にただ広い街というimage。街には唯一のホテルがあり、非常に高い。
Floor 20Af. On Bed 30Af. Name of MAIMANA HOTEL (GOVERMENT HOTEL)と称してた。
1972年9月4日(月)HERAT → MAIMANA


ヘラートを出てマザリシャリフとの間にあるマイマナに向かいます。
途中スウェーデン人と一緒になり、奥野君と3人です。

写真がないので、急きょ自分でスキャナーしました。
マイマナ付近で休憩したチャイハナの写真です。






72090601.jpg
今日MAIMANAを出る。スウェーデン人はもう1日ここに居るとのこと。

朝7:40出発。
あわてて出発したため朝食を取らず、そのため乗る前にナンとハルブサを買う。
ハルブサは車のユレのため現地のヤツらと一もん着。道は道路を直すために1m位おきに土を盛ってるのだが、そのガタンゴトンのためHERAT、MINAMI間より悪いように思う。

12:00頃、1:00頃、その後は20分位おきに停車。
大草原である。KABULを出てからこんなに大きな草原は見たことがなかった。草原と言ってもブッシュ状の草が点々としているだけなのだが。

3時半頃、草原の向こうにシュベルガンが見えてくる。
4時頃、シュベルガン到着。
多少文明のにおいがしてくる。コーラがあり、道の脇にParkがある。ここからはソ連製のいい道である。
考えてみれば、チャリカールからここ2週間というもの、全くの土ぼこりとしん動の悪路との戦いであった。

5時出発。
太陽がソ連製の道路に向かって落ちてゆく。
途中2回ほどPRAYのため停まった。(注:お祈りの時間)
夕日は地平線と空をわけて落ちてゆく。正に砂ばくの太陽はえも言えぬ美しさがある。
どんなに苦しい目にあっても、この太陽を見たら、僕はすべてに感謝すると思う。
この国にアラーが存在するのは、この瞬間のためだと思った。

8:00、事件である。クソがしたくなった。
この日は腹が悪いくせによく食った。ハルブサ、コーラ、チャイ。それがこの動く車で起こったのである。
しかし車はガンとして停まってくれない。全く地獄だった。

8:30、心身ともに待ちに待ったMASARIである。腹は出したら、なんとかおさまった。
HOTEL:大きいHOTELで、ベッド40、フロアー30。 外で寝る(庭)20
9月6日(水)MAIMANA → MASARI・SARIF


マイマナから北の都市、マザリシャリフに向かいます。
アフガニスタンでは、カブール、カンダハル、ヘラート、そしてマザリシャリフの4つが大きい街なのです。

カブールを出てからほとんど未舗装のデコボコ道で、マザリシャリフに近づきやっと平坦な道に出ました。
そしてまた下痢になり、この車中の下痢も辛かったです。

写真は祈りのために停車した時のもので、車は突然停まり、道ばたに布などを敷いて、皆お祈りを始めるのです。







KABULを出てからMASARIまで2週間、長かった。第2番目のパターンとしては全く良かったと思う。

MAZARIの町を見物してきた。モスクを中心に、その回りに3、4階建てのビルが並び、公園がある。
5時過ぎに出かけていったので、ちょうどprayの時間。大勢の人が3、4列に並びお祈りをするのである。
二人の学生と話をしてみたが、モスリムに関しては僕らに説く力を持っていないのである。

多少疲れた。出来たら明日、カブールに帰りたい。
9月7日(木)MASARI・SARIF


日本を出てからちょうど2ヶ月。
アフガニスタン国内の旅行もそろそろ終わりに近づきました。

チャリカールからマザリシャリフ手前まで、ほぼ2週間、未舗装デコボコ道の移動は想像以上にハードでした。
しかし振り返ると、その厳しいさが逆にいい思い出になっています。

写真はマザリシャリフのモスクです。本当に綺麗でした。







8日、朝7時JUSTにMASARIを出発。2時頃サラン峠。6時半にKABULに着いた。
バスは100Af.
そのままシギスで夕食後、KUME氏宅へ行き荷物をもらう。
EIJIとミキがまだいた。彼らは11日にplaneで飛ぶとのこと。

前の晩、金の計算をしたら、すごく使っているのに気づき、それに早くAFGHANを出たくなったので出ることにした。その夕方、地元の青年と約束したのだが、そのまま出ることにした。

今日は10時半起床。やっとカブールのヨーグルトを食べた後、シャワー。
今は4時ころ。
ムスタファーホテルにいるのだ。レストランで手紙でも書こうと思ってる。
9月9日(土)KABUL


やっとカブールに戻ります。
マザリシャリフからカブールは、それでも11時間半かかりました。

カブールに戻ると、EIJIとミキがまだ残っていました。
ひらくとタケシはヨーロッパに向かったようです。

この写真も自分でスキャナーしたもので、マザリシャリフ付近かと思います。フイルムスキャナーではないので、暗くなります。(もう少し実際は明るいです)







まだムスタファーホテルにいる。2つの手続きはうまくいっている。

出国ビザはどういう訳か大使館の人が全てやってくれるという。
自分は動かなくていいようだ。
インドビザは$100のチケットが必要だが、Air Ticketとトランジットビザなので
なんとかもらえる。
9月12日(火)KABUL


カブールに戻ってからさっそく出国準備にかかります。
ビザの申請など、10日ほど費やします。

写真はこれも自分でスキャナーしたもので、カブールに戻ったころの市内の様子です。

写真の程度がよくないのですが、何もないよりいいかな?(笑)







ビザは明日もらえる。AFGHANISTANはあと二日間だけになった。

相棒はGATEが木曜なので、今日KABULを出て行った。
9月18日(日)KABUL


相棒というのはヘラートで知り合った奥野君の事で、彼は国境の開閉の関係から先にカブールを出ました。

実は、陸続きの国境を越えるのは、大変な事でした。

写真は、これもこの頃写した市内の様子です。
この付近は外人用ホテルのある治安が良いところで、警官も優しいかったです。







明日AFGHANISTANを出る。ちょうど二ヶ月半である。長いと言えば長かった。
この国がいままでの僕の旅行の全てだ。

2つのパターン。
山に入る事とAFGHAN一周が終わり、これから3つ目の旅行に入る。

最初の予定からすると長いAFGHANだったが、一つの国を知るにはこの位がちょうどいいような気がする。
(これ以上いるとあまりAFGHANびいきになりすぎてしまうヨ)
9月19日(火)KABUL


いよいよアフガニスタンともお別れです。

写真は、僕らが近づけないようなスラム街です。
遠くの山に鉢の巣状の土の穴だけの住居が見えました。

これがアフガニスタンの現状でした。
しかし、心優しいアフガニスタンでした。

サラバ、アフガニスタン!









nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

IDEA's Afghan Tour No.10 = パンジャオ → チャグチャラン → ヘラート = [Afghan Tour]

 
No.4899(So-net 2611+Diary 2288) 2019年Blog WebDiary Since 2002

コロナ禍でどこにも行けず、写真を撮りに行くことも出来ないので
IDEA's Afghan Tour を So-net にそのまま移してみました。



グレーの囲み記事は1972年当時書いた日記を書き写したもので
水色は2003年9月から10月まで Web Diary で書いたものです。

画質は悪いですが、写真はどれも拡大して見ることが出来ます。

キャンプから戻った僕ら5人ばらばらになり、僕はEIJIとも別れ
アフガニスタン国内を一人で旅を続けます。




72083001.JPG
5時40分起床。
この寒さは10月の軽井沢と同じくらい。今年のAFGHANはいつより寒いそうだ。
それにしてもまだ9月になってないと言うのにめっぽう寒い。

6時、事件発生。エントツの火から草木を置いてあるだけの屋根が燃えた。
すぐに消し止めたが大きな騒ぎだった。

7時、このチャイハナともバイバイしてバス(orトラック)の停まるという、川のそばのチャイハナに行く。
トラックが60Af.バス80Af.だと言っていた。

もう8月の末だ。
日本では小学生が宿題に追われていて、ヒーヒー言ってるのではないか‥‥

9時20分頃、1台のトラックが始めは「行かない」という。しかしCAGHCARANと言うと
「いくらなら行くか?」と言うではないか。
僕が100、敵が150。OK! Goto CAGHCARAN.

後で考えるとYakawlangでもそうだったが、外人Touristには甘くない。始めは行かないと言うのである。
そこは感で、行くと思ったら「いくらなら行くのか?」と先に持ちかけるのが一つの手だろう。

今までの値段を考えて見ると、
KABUL  →BAMIAN     BUS 250km  60Af.
Yakawlang→Panjaw     Truck 55km  50Af.
Panjaw  →CAGHCARAN Truck 210km 150Af.

Trauckが1km-1Af.以下と割高。これは。Trauckが私的に走ってるからだと思う。
CAGHCARAN→HERAT 350kmを150~200Af.と思っているのだが‥‥
1972年8月30日(水)Panjaw → CAGHCARAN


PanjawでEIJIと別れた僕は、チャグチャランに向けて出発します。

チャグチャランまで210キロ。
無舗装のデコボコ道を、写真のようなトラックで移動します。
写真は水をくむ子供が写っているので、トラックがオーバーヒートしたようです。

またこの時期、何度もお金の計算をしています。
地図もなくお金もない、いま考えるとずいぶん無謀な旅行です。







9時20分に出たTrauck。12時半に休憩。1時出発。
夜8時半頃、仮眠のため停車。

朝4時半出発。
朝6時、CAGHCARAN到着。

相変わらずの土ぼこりと、振動、それに寒さであった。
風景がCAGHCARANに近づくにつれ、中央高原の砂ばくといった感じで、キャラバンがラクダをひき連れ、テントを張ってるのをよく見かけた。
我らのTruckはソ連の人間らしいのを一人乗せていて多少特しゅであって、夜になるとdriverとその人間とベッドを持ち出して寝るなど、普通のトラックとは違っていた。

CAGHCARANは正に中央高原の町。今までの町とは違い広い大地の上に、広々と町を構えていた。

8:00、HERAT行きの車は割りとあるようだ。今日、1時に出るとチャイハナのおっさんが言っている。
しかし、あくまでAFGHAN。
どこまで信用出来るか分からない。相手に聞けば「あー今日あるヨ」と答えるがのがこの国だ。

8:30、僕の計算はあたった。車はソ連製のいいものであるが、さすが350km、2日掛かる道のり、400Af.と言ってきた。300と言うと言葉が分からないので、よく理解出来ないが350という事らしい。

計算その2
700Af.  CAGHCARAN→HERAT 350Af.
350Af.  食費二日間         50Af.
300Af. + 時計 800Af. + $3(240Af.)

1340Af.この金でなんとかKABULに帰れるだろうが、時計がなくなるのが痛い。
時計を売らないとして、540Af.これでKABULに帰るのもシャクだし。

多少、運が残ってるのかもしれない。もう出発。

CAGHCARAN、9時20分出発。10時、草原の最終の村にとまる。
4台十組の運送会社の車である。途中からAFGHANの先生が乗ってきた。
人のいいヤツで、350と思っていたのを、2人で乗って200+200にすれば良いと言ってきた。
非常にラッキーだ。もし本当ならば。

11時頃から山にかかり12時すぎに峠を過ぎる。大きな峠で、AFGHANの中央高原が一望出来る。
12時半休憩。

CAGHCARANからここずっと、中央高原なのである。遠くに山が低く見え、草原が広々と広がる。
途中点々とマオ・テントが見え、遊牧民が秋の盛りを働いている。夕暮れが近づくにつれ、太陽が西に傾き目の前に迫ってくる。まぶしい、厳しい山の上の太陽に向かって走る。自分が地球上の点になり、動いているのが分かるのである。
8月31日(木)CAGHCARAN → HERAT


パンジャオを朝の9時に出発し、途中8時間の仮眠をし、翌日の朝6時にチャグチャランに到着します。

そして20時間以上の移動のあと、すぐさまヘラートに向かいます。

一見過酷な旅行なのですが、いま思い出すとこの移動するだけの旅を僕はしたかったのだと思います。
肉体的に厳しいが、移動する事で自分自身が安らいでたような気がするのです。







31日はちょっと面白い事があった。
僕がいま乗ってるいるTruckの社長のような人にあったのだ。2時頃だ。
我らが休けいしているところに彼が来た。MOMTAZ TRASPORT社の社長の息子で、
4台のトラックを引き連れHERATからKANDAHARに行く途中のようだ。

31日はそのまま走り、5時頃停車。そのまま夜を過ごす村となる。
その夕方、その青年社長と色々話した。

今日は5時ころ目を覚まし、7時頃出発。
10時頃、その青年のジープがまた来て、僕はそのままジープに乗ることになった。

同い年なのだが、2,3才上に見える。それはアフガン人がみなたくわえてるヒゲのせいかもしれない。
彼は自分のトラックを非常に自慢しており「250台も持っているんだ」と誇っていた。
彼はこんなに僕に近づいたのは、僕が日本人だからだろう。非常に親しくなり、来年は日本に来て日本のお嫁さんをもらうんだと張り切っていた。しかし彼は完全なモスリムなのだ。彼らは僕がアラーをたたえる言葉を唱えると、全く喜ぶのである。そう。僕はアラーを信じていると言ってもよい。しかし、祈る気にはなれない。彼らの生活にアラーは全体だ。彼は日本の女性を求めていたが、その点で僕は悲観的だ。

もう1つ。お金のことである。結局300Af.を私はpayした。別に不思議な事ではない。彼が「なぜお金をpayしたのだ?あなたは私のguestだ」と言うのだ。しかしdriverは彼の言葉にもかかわらず、知らん顔で受けとるし、彼はdriverに何も言わない。―まったく疲れた―彼にもどうする事も出来ない。そう思って彼らと別れた。
9月1日(金)CAGHCARAN → HERAT


この旅行はEIJIと別れてから一人旅なのですが、しかしいろいろな人との出会いがありました。
まずはこのトラック会社の社長(または、その息子)です。

一緒のジープに乗せてもらい丸二日、いろいろな話をしました。
アフガニスタンの言葉はペルシャ語で、僕は基本的な単語を日本で覚えて出発し、カブールに着いてから手真似を交えて単語を増やしていきました。しかしやはり詳しい会話は無理です。

そこで、この社長や現地の学校の先生とは英語で会話してましたが、片言の英語でやっと会話になっていたと思います。






色々のことがあったが、もうすぐヘラートだ。
今はすでに出発しようとしているバスの中、シンデンという所だ。

シンデンはカンダハル-ヘラートのごくヘラート至りで、中央道路がぶつかった所だ。
初めてハイウェイが中央高原から見えた時は嬉しかったぞ!

ヘラートはこのバスで2時間ほどだ。

いま面白い状況なのだ。彼がPushしてくるのだ。彼とはヒツジでバスの中にびっしり5頭ばかり。
人間とヒツジと同じ状況におかれている。僕はこういう時間が好きだ。

今日は9月2日。Septemberだ。
何となしに心がウキウキしてきた。ヒツジとこれからFightだ。
いまチャグチャランから一緒に来たAFGHANの先生にRash Hourの説明をしたのだ。
ちきしょー ヒツジー!
9月2日(土)SIN-DAND → HERAT


1週間近くかかった中央道の旅もそろそろヘラートに着きます。
ところが後で分かるのですが、チャグチャランから真っ直ぐヘラートに着くのかと思っていたら、
ヘラートの南100キロほどのシンデンという町に着いてしまったのです。

そこでやむなく、シンデンからバスに乗ってヘラートに向かいます。

ところが驚いた事に、人が乗るバスにヒツジが一緒に乗ってくるではありませんか!

そして悪いことに僕はヒツジの隣りにギュウギュウと押し込まれてしまい、その上しばらくすると足に冷たいものを感じます。何と、バスの中でヒツジにオシッコをかけられてしまうのです!

まったく、なんて国かと思いました。







8:35
今日、HERATを出る。

昨日着いたSIN-DANDはHERATからかなり離れている町だった。CAGHCARANからHERATに直に来るcourseではなく、遠回りの道であった。

SIN-DANDから来るバスは下町のバザールのあたりで停まる。BANKや外人向けのHOTELを求めたい場合は、下町、モスク、外人向けというように歩けばよい。
HERATの町はちいさな路地が無数に走っていた。非常に面白い町だ。

HERATに着いて、すぐ出ることになったのは、一人の日本人と一緒になったからだ。
ヤツは北大の人で、去年10月日本を出てヨーロッパを回ってAFGHANに来た。
金は彼から借りる。

8:45
バスは9時に出る。
9月3日(日)HERAT


この頃になると旅行するのが精一杯なのか、写真はあまり撮っていません。
珍しくヘラートの地図を書いているので、それを載せます。

日記にある北大のヤツというのは、このヘラートで知り合った奥野君と言って、
この後インドまで一緒に旅をすることになります。

そして帰国した翌年の夏、僕はバイクで北海道まで行くのですが、
その時に札幌で再会し、彼の自宅に泊めて頂きました。

実は、それ以来会っていません。
タケシともこの日記で25年ぶりに連絡が取れました。
奥野君とも連絡してみようかと思います。








nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

IDEA's Afghan Tour No.9 = バーミアン → バンディアミール湖 → パンジャオ村 = [Afghan Tour]

 
No.4898(So-net 2610+Diary 2288) 2019年Blog WebDiary Since 2002

コロナ禍でどこにも行けず、写真を撮りに行くことも出来ないので
IDEA's Afghan Tour を So-net にそのまま移してみました。



グレーの囲み記事は1972年当時書いた日記を書き写したもので
水色は2003年9月から10月まで Web Diary で書いたものです。

画質は悪いですが、写真はどれも拡大して見ることが出来ます。

キャンプから戻った僕らは5人ばらばらになり、僕とEIJIは
石仏で有名なバーミアンに到着し、アフガン国内を旅行します。

それにしても、Googleマップは素晴らしいです。

いままで、パンジャオ村がどこにあったのか不確かだったのが
こうして、しっかり場所が分かるのです!(笑)







26日の朝、BAND-AMIR(バンデアミール)へ出発。小形トラックで1人60Af
フランス人6名、ドイツ人6名、イギリス人1名、日本人2名、現地人2名。

BAND-AMIRは本当に素晴らしい。途中の砂ばくの中にとつ然のコバルトブルー!
そのLakeわきに建つ石造りの家。まるでおとぎ話なのだ。
そこで会った女の子。ベルギーでダンスをやっていた。
1972年8月26日(土)BAMIAN → BAND-AMIR


バーミアンに1泊2日滞在しました。
バーミアンは辺境なのですが観光地で、多くの外国人が来てました。

そして、すぐバンデアミールに向かいます。
バンデアミールはそれは綺麗な湖です。割りと大きな湖で、一部手前がタナ田状になっていて、その景色が最高なのです。
海外にあまり知られていない絶景の一つだと思います。






72082701.JPG
26日はBAND-AMIRに一晩した。
ベルギーの女の子と彼氏。ドイツ人で船乗りでハシシな人。それに法律家のイギリス人。
みんないいヤツだ。

27日の午後1時ころ、バンデアミールからYakaoLangに行く途中にある先生の村にやってきた。
Lakeから2時間くらい歩いたところにある村で、アフガンの地方村の典型だ。

ここでYakaolangに行く車を待つことにする。
8月27日(日)BAND-AMIR → 村


バンデアミールのレストランと英語で書かれた店です。
この脇にテントがあり、宿泊出来ました。

左から、アフガンの先生、EIJI、ドイツ人、ベルギーの女の子。

そして27日の午後、
バンデアミールから徒歩で先生の村まで行きました。

途中は荒涼とした草原か砂ばくか、道があるかないかの道を、方向もどちらに向かっているのか、僕らには到底迷いそうな道でした。







10時、食事をすませて日向ぼっこをしながらこれを書いている。
ここは本当に静かな場所。まったく平和で幸せというものが、訪れたものに悟らせる。そんな静かな村だ。

夕べは先生が、アフガンの問題点をいろいろ我々に聞かせてくれた。

いまアフガンの挨拶を見ていて思い出したけど、日本にも信州の僕の田舎で、うちのお婆ちゃんと向こうの家の人が、頭を畳につけて長々と挨拶をするのだ。なんだか長ければ長いほど、頭が低くけば低いほど
良いとされてるところなど、アフガンと同じじゃないかと思ったヨ。村の人って皆んな同じじゃないかな?

例えば、こうやって旅行にきてるのは、ほとんど都会の生活を知っている。or.している都会派人間だろ。
だからFranceだろうが、England、Germany、日本人など関係なく話が出来る。(これには教育の問題があるけれど)しかしアフガンの人はほとんどと言っていいほど村派人間だと思うんだ。長々と挨拶して‥‥
8月28日(月) 村


これが先生の学校だったと思います。

屋根の上にいるのが先生で、下にいるのがEIJIです。
ここに一晩お世話になりました。

後ろに見える丘のような風景。 四方を見渡してもこんな感じの風景しかないのです。







10時半頃、YakaoLang行きのトラックが通る。先生と一緒に乗る。
延々とちいさな植物が点在する砂ばくを行く。
Ch(判読不明)を2つばかり行くと、下に川の流れる多少大きな村が見える。YakaoLangである。

12時半着。先生と一緒にチャイハナで昼食。
先生は今来たトラックで村に帰っていってしまった。
今はEIJIと二人だけPanjawへ行くトラックを探さなくてはならない。

一つ付け加えておくと、BAND-AMIR発YakaoLang行きのバスはある事はある。しかし我々は1時発のバスを見逃したのだ。そのバスが定期ではなく、いつ出るのか分からないのだ。
8月28日(月)村 → YakaoLang


我々は当初バンデアミール発YakaoLang行きのバスに乗るつもりだったようだ。
それがバスを逃したので、先生がYakaoLangまでの道案内を買って出て、ついでに先生の村で一晩やっかいになったのだと思う。

先生は我々をYakaoLangまで案内すると、そのまま帰ってしまいました。バーミアンからの4日間でしたが、非常に印象深い出会いでした。

なおYakaoLangの位置は、カブール・ヘラートの中央道との中間あたりではないかと思います。

写真はYakaoLangに向かう途中、休憩したチャイハナ。







午後3時
1人50AfでYakaoLang→Panjaw行きの塩積みトラックを見つけ出発。
YakaoLangでは「Panjaw~」と呼び込みをやっているので分かるであろう。
町を出るとすぐ山にかかる。すごい土ぼこりだ。まるでスタインベックの「怒りの葡萄」を思い起こす。

2つ目の大きな峠に5時頃さしかかる。トラックの調子が悪いため、皆トラックから降り峠を登った。
6時頃日は沈み、7時半ころ星空になった。
トラックは8時過ぎにPanjawに着く。

チャイハナは2軒ほど。露天に近いので8月末と言っても寒さは相当で用意がいる。

PanjawはYakaoLangかBAND-AMIRと比べて交通量は多く、車を見つけるのはeasyの様だ。
僕はこれからチャグチャラン行きのトラックを見つける。
EIJIとはここでお別れだ。
年8月28日(水)YakaoLang → Panjaw


先生と別れた僕らは、中央道に戻るべくYakaoLangでPanjaw行きの便を探します。
アフガンでもこの辺は辺鄙なので、トラックが重要な交通手段です。
トラックの荷駄に乗り込み、タイヤから巻き上げる土埃で顔はドロドロになります。ターバンで顔を覆うのはこんなためでもあるのです。

3時に出発して8時過ぎにPanjawに着きました。
5時間以上乗ったことになります。
そして泊まる場所は、屋外と同然のチャイハナです。






8:30
EIJIが6時のトラックでKABULに向かった。

※Panjawについて
地方とKABULの中継地点。塩が主なもので、KABULに向かう車は割りと多い。Panjawは他の村同様、川に面しているが、川の向かいにセスナのとまる飛行場付きのヨーロッパ風の石造りの家がある。
BAND-AMIRを飛んでいたセスナはここのものらしい。ここからBAMIAN、HERATへは2~3日の車待ちが必要。チャクチャラン、HERATの間はよりdifficultだと現地の人が言っている。

現在の持ち金:920Af.+3ドル=1160Af.
10日にKABUL着として、1日=100Af.として13日間1300Af.が必要となる。相当の節約が必要。
ナンとチャイだけの生活になろう。

12:15
変な青年(失礼かな?)が現れた。18だっていうのにやけに英語が達者で、何となくしゃあしゃあしている。
「君は人と話し合うのが好きじゃないのか?」と聞かれた。まったく変な話だ。早くHERATまで行きたい。

よく計算してみると(その青年が聞いてくれたのだが)Floorでマットレスで夕べは20Af.取られた。
今晩は15Af.にする。

久しぶりに疲労を感じている。それが以前の頭だけグルグル回る、あの状態なのだ。

明日は30日(水)明日の夜か朝にはCAGHCARAN(チャグチャラン)に着いてるだろう。
CAGHCARANからHERATまで2日と見て、2日にHERAT‥‥13日にはKABULに着きたいものだ。

この村の生活もAFGHAN調にやっていれば時間は過ぎていく。例の青年と3日前からここにいるフランス人とガンとRug(敷物?)の取り引きを見てきた。その青年を見ていると田山花袋(たやま・かたい)の「いなか教師」を思い出す。‥‥志を抱いて一生懸命勉強し、しかし世の波に乗れず、というより都会のスピードについて行けず、いつか片田舎で一生を終えていく青年。――何が人間にとって幸せなんだろうか? ここの村人もいつか年をとり、世が動いていくのを眺め、土に帰っていく。人間というのはしょせん哀れなものだ。ものを考えずに自然の中に自分を見いだし、そして土に帰っていくこの村の人々。これほど自然の摂理に合った、何が幸せであるかという事と関係のない、良い生き方があるだろうか?!

しかしこういう事を書いている自分も、もうそこには帰れない悲しさ‥‥これがこの世に与えられた自分の運命であろう。自分の生命は、両親の本能と愛情によって与えられた。その愛情を過多に感じ、そして自分の運命の哀れさを感じ‥‥

村人とトランプを興じたあと、9時に寝る。
8月29日(火) Panjaw


7月6日に日本を出てから2ヶ月間ずっと一緒だった仲間、EIJIともここでお別れしました。
これからは本当に一人旅です。

いま気がついたのですが、一人になった途端に日記の書く量が増えます。
面白いです。

さて、Panjawに着きました。
はたしてチャグチャラン、そしてヘラートに着けるのでしょうか?
(いまカブール、ヘラート間の距離を測ると、817キロでした。)








nice!(3)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

IDEA's Afghan Tour No.8 = カブールからバーミアン石仏へ = [Afghan Tour]

 
No.4897(So-net 2609+Diary 2288) 2019年Blog WebDiary Since 2002

コロナ禍でどこにも行けず、写真を撮りに行くことも出来ないので
IDEA's Afghan Tour を So-net にそのまま移してみました。



グレーの囲み記事は1972年当時書いた日記を書き写したもので
水色は2003年9月から10月まで Web Diary で書いたものです。

画質は悪いですが、写真はどれも拡大して見ることが出来ます。

さて、キャンプから戻った僕らは5人ばらばらになり
カブールで次の準備をして、僕はバーミアンに向かいます。




昨日はKUME氏の家でお昼を取ってから、ホテルをGREEN HOTEL に決めて、またKUME氏宅へ。
7時頃からDinner Patty。夜10時半にGREENに帰り、寝る。

今日は、皆はすでに起きて荷物の整理を12時頃までした。
そして今日はまたGREENを出るため片づけ。朝を食べたあと(クッキー、ヨーグルト、ハルブサ) 2時にGREENを出る。
ホテルをムスタファーに決め、EIJIと僕で1部屋70Af. ひらくは一人部屋で50Af. ミキ、タケシは隣りのShi-na HOTEL。2人1部屋100Af.

6時半、Littel LanternでKABUL帰着祝い。

10時寝る。
1972年8月11日(土)カブール GREEN HOTEL → ムスタファーホテル


キャンプからカブールに戻ると、荷物の整理と買い物に追われました。
そして、次の旅に出かける準備が始まります。
ホテルを代わったのは、安いホテルにするためだと思います。

Littel Lanternはカブールのチャイニーズ・レストランで、今から思うとタイ料理にも似てました。 味はさておき、麺類などはずいぶん助かった気がします。

写真はカブール到着後に撮影した、アフガニスタンの独立記念日だったと思います。広場に多くの男たちが集まっていました。(この前後の写真が少ないので、急きょスキャナーしました。)






8時に起き、シャワーを浴びた後EIJIと朝のクッキー。ライスプディング屋でA1に会う。
10時まで、僕はShi-na HOTELで洗濯。
10時半、全員Japan Embassy着。岡田氏と会って、その後EIJIと昼食。その後Shopping 途中、ひらく、タケシ、A1に会う。A1に毛皮コートを安く紹介してもらう。
僕はLong Bootsを買う。出来上がりは水曜。
その後OLDバザールで薄いカーペットを買う。
皆とはぐれた後ホテルに戻り6時頃また買い物。毛皮屋できつねのコートを30ドルで買う。明日出来る。

8時、Littel LanternでDinner。
11時、ホテルでやっと手にした手紙の返事を書く。
8月12日(日)カブール ムスタファーホテル


ロングブーツはアフガンファッションの定番で、帰国後もずいぶん愛用してました。

ブーツと当時流行った赤いアポロキャップでバイクに乗り、イージーライダーを気取ったのです。
(当時はヘルメットをしなくても、違反だったが罰金がないため、ヘルメットをしなくても大丈夫だった)






4日間ぶっ倒れた。
前のページを書いた翌日から寝込んで、まったくひどり下痢をしたものだ。今日もまだ多少残っている。

あと、3、4日でKABULを出ようと思う。今日、家に手紙を書いた。

愛と人生。今日はちょうど映画の話をしていたら、テオレマとJ・ディーンの2本の映画を思い出した。
2本とも人間の愛の問題だと思う。人を愛するという事、かなしさ‥‥
このことは、人間が生きるとい事と結びついてると思う。
結局、愛に行き、死んでいくのではないだろうか。
エデンの東のテーマソングと場面は出てくるヨ。
8月18日(金)カブール ムスタファーホテル


簡単に書いてますが、この下痢は本当にひどいものでした。
まったく水しか出ないのす。

4日間ただただ寝て、それでも食べないと死ぬと思ったのでメロンなどを食べて、また出してました。
「寝てれば直る」と人の自己回復力を願うように寝てました。

1週間後に回復したのですが、EIJI、タケシ、皆んなにはお世話になりました。







今22日の0時半。ハイバルレストランの前。やっと一人旅が始まった。今日アリアナエアーで荷物を送り出し、すべてが軽くなった。
EIJIと2人でジャシンを見てからバーミアンに行くという予定を、今日一人だけEIJIをKABULに残りして出発する事にした。今日まで1ヶ月半、皆と行動してきたこの旅行も、自分と戦う、まあちょっと寂しいが、自分の旅行が始まった。
これからバーミアン、バンデアミールから中央道をぬけてヘラートに至り、北に上がりマイアナ、マザリシャリフを回ってカブールに戻る。3週間のAfghanである。ちょっと心配なのはMapがないということ。ヘラートに至るまでの中央道がバスのないヒッチハイクになるので、地名が分からず困るのではないかと思う。まあしかし、ないものはない。ケセラセラで行くヨ。
ハイバルレストランにいればバーミアンに行く旅行者がいると思ったが、それらしきは僕だけである。

今日もEIJIと話したが、人生はGameであるという僕の持論。もう少し形がはっきりしたものにしなくてはと思う。この前からばくぜんと感じていたのだが、Gameは終わりがあってないようなもの。勝っても負けてもその後はどっちでもいい。それで笑って終わりじゃないか。一生だってそうだヨ。

ちょっと疲れた。だれかに手紙を書きたいけれど住所が分からない。誰に書こう――いま僕の気持ちに残っている女の子が多くないので驚いている。
8月22日(火)カブール出発


ひどい下痢から回復し、
キャンプから戻って12日目にやっと次の旅行に出るのです。
グレーの地図で3番目の「バーミアン」という旅です。

ところが下の日記を読むと、4番目の「アフガン国内」まで書いてます。
実は日記のように、僕はアフガン国内を一人で旅しようと夜中ハイバルレストランの前でバスを待っていたのですが、結局バスはなくこの日は出発出来なかったのです。

写真は途中で撮影したチャイハナでの風景で、旅人の手を洗っているところです。







OLDバザールから1人60Af.のバスで夜中の2時に出発。

3時にチャリカール。4時頃からデコボコ道に入る。
6時、朝食のため村に停まる。すぐ出発。12時半昼食。3時、BAMIAN着。

僕らは5Af.(Floor)のチャイハナに荷を置き、すぐ寝る。
夜の8時に起き軽く食事をした後、翌朝7時まで寝る。
8月24日(木)BAMIAN


上の日記で注目して欲しいのは、なんと地図を持たずにアフガン国内を旅行しようとしている事です。この事はこの日記を読み返してあらためて思い出しました。
なんという事でしょうね。自分でもいま驚いてます。

22日は結局バスがなく、ハイバルレストランから戻った僕は計画を練り直し、
24日にEIJIと二人でカブールを出発します。

写真はデコボコ道をバスに揺られて丸一日(本当に疲れました)、やっと見えたバーミアンの仏像のある丘です。左側に小さく石垣が見え、その左に穴が見えるのですが、その奥に仏像があります。






72082501.jpg
朝、KUME氏一行に会う。朝食を伴にしたあと、彼らはBAMIANの石像を見に出かけた。

夕方、KUME氏一行が戻り、合流して夕食。
そこにアフガニスタの村の先生がおり、佐々木氏の力で先生とこの先一緒に行くことにする。

※情報その1
BAMIANに「JAPAN」とデカデカ書いたハイエースに出会う。造形大の連中でドイツまで車を運び、中近東まで来たとのこと。車を船で運ぶのに30万円ほどかかったそうだ。
しかし「車を外地で売ることは出来ない」と言っていた。なぜなら車を外地に出したとき、輸出という形ではなく、一時持ち出しの様な形にしたらしく、その方がお金がかからないと話していた。

※決心その1  BAMIANの山の上で
2年後に僕が3年になれた時点で4年を休学し、1年間世界一周を計画し実行すること。
方法はバイクでサンフランシスコ→ニューヨーク→ロンドン→パリ→マドリッド→マラケシ→カイロ→マルセイユ→ローマ→アテネ→イスタンブール→テヘラン→カブール→アクラ→ニューデリー→カトマンズ→カルカッタ→バンコック→サイゴン→東京
8月25日(金)BAMIAN


これが有名なバーミアンの巨大石仏です。写真でその大きさが分からないかも知れませんが、全長55m(ビルの12~13階?)と言われています。それは見る者を圧倒する大きさです。
これがタリバンによって破壊されたニュースを見た時は本当に悲しい思いでした。

そして、日記には世界一周旅行の計画が書いてあります。
地図は持ってないので、頭の中に世界地図が入ってるのですね。(笑)

また日記にある「村の先生」は、この後しばらくEIJIと3人で旅をして、彼の村まで行くことになります。






nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

IDEA's Afghan Tour No.7 = さらば!アンジュマン! = [Afghan Tour]

 
No.4896(So-net 2608+Diary 2288) 2019年Blog WebDiary Since 2002

コロナ禍でどこにも行けず、写真を撮りに行くことも出来ないので
IDEA's Afghan Tour を So-net にそのまま移してみました。



グレーの囲み記事は1972年当時書いた日記を書き写したもので
水色は2003年9月から10月まで Web Diary で書いたものです。



アンジュマンでのキャンプ生活も12日目が終わります。

Googleマップでアンジュマンを示しましたが、最大に拡大すると
大きな集落が見えます。そのような大きな集落は通りませんでした。

もしかしたら、Googleマップで示したアンジュマンよりも手前の
小さな湖にテントを張ったのかも知れません。



帰る日が決まったぞ。6日の朝にブルバハイ、アンジュマン!
昨日は眠れなかったな・・・あーぁ SEXしたい――

夜のヤミに関する考察:なぜ真っ暗ヤミのテントの中を見つめる事によって、ランプやテントのシワが見えてくるようになるか? それは人間の観念の世界で、ランプの存在を知っていた事で見えるという復元ではないのか? もし何もない状態で暗やみを見た場合、そこには今まで自身が体験してきた世界が目に見えるのではないのか?

次にそれに関した考察:人間の観念の、つまり頭の中で観じ見ることによって、脳裏に刻まれたFigureがその自身の全ての世界ではないだろうか。

静かだ。全く。こんなに静かな生活があったろうか? 日本でマイナスだと思いつつ生活してたあのころ。何がマイナスだったんだろう? EIJIと横浜からの帰り、今の生活はマイナスだヨって、車の中で運転しながら言ったのを覚えている。 昨日は学校は幼稚園だと思った。マイナスと幼稚園。 子供の頃、宇宙を飛び回るのが夢だと書いた。それは単に自由を求める、そして刺激を求めての永遠の旅だったのだろう。学校に今いる現実、なぜ美術大にいるんだろう? 夢と現実、自分の意志と、人間が生きる苦しさ。

自分の生まれた頃、親と子供、従業員、大きな家だった。働いてる人、ナオキ、ナオキって呼ばれていた‥‥。多少大人になって、自分が家を継ぐことになっていた。自分の生きる事って何? 若いからか?
幸せに生きていれば、出来た‥‥。単にわがままから発したものだろうか? しかし人間はもともとわがままなんだぜ。
おやじと僕、子供みたいなおやじ、いつも自分が自分がって思ってる。僕を真っ直ぐ育てようとしていた。今でも真っ直ぐさ!
高校の頃、幸せに生きてきた。なぜかって、それは何も知らなかったから。ん! それは間違ってるな。人間はいつまでたっても知らないんだ。そういう事を知らなかった。でも学校を出る時、皆んなが間違ってる事に気がついた。それを言ってもわかるヤツがいなかったのは淋しかったけれど。

今は21。自分の事をもっと知らなくては‥‥
この旅を大事にしたい。
1972年8月3日(木)キャンプ第9日目


写真は、右端の背中がタケシ、その左が通訳のA1。
左の二人は現地の遊牧民。そしてロバに乗る現地の子供。

この頃は現地の人とも仲良くなり、こんな風に一日を過ごしてました。

日記にある「ブルバハイ」は「さようなら」ですね。確か(笑)






72080402.jpg
7時起床。アンジュマンの生活にしてはなかなかの早起き。ひらくが1人で出かけていった。
ネズミをつかまえたぞ。この村に2匹の小動物がいっしょに生活することになる。
今日はつり大会だそうだ。オリンピックさんに出す写真で、今日はお魚のお料理です。

この村もあと2日。ついてから10日目の今日も、体のだるさに皆んなに負けている様子。

▲カブールに着いたら
1)KUME氏の所から荷物をもらう  2)Travelの必要最低限の物をえらび出す。
3)リュックかショルダーかを決める 4)3によりショルダーの購入を決定
5)あみやげ、AFコートなどを購入  6)Tokyoへ荷物を発送
7)5の残金よりTravel Root決定

今日のつり大会は5人で大挙して行ったにもかかわらず、大した釣果はなかったのです。(いま釣果という字で大変もめたのです)

今はハッシの時間です。いま非常にきてます。いま分を書く時間が大変かかってます。EIJIと話してます。

人間の観念の存在について、人間の頭の動きによって、その他の世界の
8月4日(金)キャンプ第10日目


写真は、A1、タケシ、村の子供3人。手につり上げた魚。EIJI、ミキ。

子供たちは本当にボロを着てますね。いまでも同じだと思います。

日記にある「オリンピック」というのは、釣り具メーカーの事でフィルムをここからもスポンサーしてもらったので、それ用の写真撮影なのです。

アンジュマンの生活もあと残りわずかです。







ゆうべの夜の事を書こう。
前のページの様にEIJIとふたりでハッシをきめていたのだ。そう9時頃だ。

はじめにミキが人を感じたのだ。そしてひらくがテントに光をあててるのを見て3人とも動き出した。僕たちは外での状況が分からず、きまりっぱなし。それから40分、Robberとの戦りつの時間だった。ショットガンは撃たれ、Soldierはライトで敵を探していた。僕はいぜん自分の世界に入り「どろぼう? 寝ようぜ、EIJI!」と言うほど。EIJIは恐怖でふるえているのだった。

今日の朝、自分だけがちがう事をやっていたのを感ぜずにはいられない。この事は「ヤンベは居直ってたんだヨ」と言われる事でわかる。別に居直ってた訳ではない。「死」というものの考え方の違い。全ての対人関係からくる物の言い方。‥‥もう何でもいいヨ!
8月5日(土)キャンプ第11日目


キャンプでの写真はこれが最後になります。
(事件があり撮影どころではなかった)
この写真は8/5にEIJIと二人でハッシで決めた時、シャッター・スピードを落として、それらしく撮りました。僕のお気に入りの1枚です。

事件はこの後に起こりました。

前年拓大のワンゲル部が強盗に襲われたのを知っていたミキが、拳銃を用意したのは単に遊びのためだったわけではなかったのです。

「Soldier」というのは通訳の事です。






今は1時である。まだアンジュマンの湖のそばに、テントをたたんで居座っている。

夕べは火を絶やさず、寝ずの番でテントを守ったのだ。10時頃まで皆んな緊張して火に当たっていた。
EIJIと僕とで1時まで守っていた。それから後の3人が交代。

今日は7時起床で出発の準備。ところが全くAFGHANという国はPoor! またMoneyでもめたのである。
僕らの決定で全員歩きでダシュトゥリ・ワートに行く事になって、荷をほどいた。今はContactを取っている。もしOKなら、明日8時に出発。NoGoodなら、今日これから歩きでブルバハイなのだ。

色々な事があったけれど、AFGHANっていう国は‥‥。昨日いや、おとといあたりから変だぜ。Robberは現れるし、馬方はバカだし。

今日は8月6日。広島の原爆記念日なのだ。EIJIが手紙を書いているヨ。
今の状況は荷を下ろして散らかっている間に、皆んながいるのだ。

Robberに関しては本当に死に接したといえば、そうなのだ。しかし、自分に死という概念があまりにも簡単なため、単に理解出来なかったのは確かだったのだ。
8月6日(日)キャンプ第12日目


アンジュマンでの最後の二日間は本当に緊張しました。
何者かが僕らのテントに近づいてきたのです。結果的にショットガンで威嚇したことが効果的だったようで、その後寝ずの番をして無事に夜明けを迎えました。

夜が明けて出発の準備に取りかかると、今度は馬方との交渉です。
結局馬方と金額で折り合いが付かず、ダシュトゥリ・ワートまで歩きで帰る事になるのです。

泥棒に襲われた次の8月6日午後1時にアンジュマンを出発し、この日は峠の手前でキャンプしたのです。






一昨日は前のページを書き終えるとすぐに出発。峠のすぐ手前でテンパる。何せキャラバン中の事、全て簡単にすませている。

そして、きのう朝9時にアンジュマン・パスに向けて出発。人間の足は速い。11時頃には峠に出ていた。途中タケシと2人で岩登り風なこともしてみた。
1時出発。荷物はA1にまかせ、我ら5人は別々に歩き。僕は一人で、パスからここ、つまり行きの3日目のキャンプ地まで快適な歩きだった。

昨日の夕べは外で寝た。それがシュラフに白いもの。霜が降りていたので驚いた。しかし体は温かかった。

今は7時。これからクソをして9時頃出発だと思う。何せキャラバン中の事、多少でも書いておきたいが、動くことの楽しさと辛さ。いろいろ書いてみたいと思う。

これからダシュトゥリ・ワートまで二日間かけて行き、10日夜にはカブールに着くのではないかと思われる。
8月8日(火)


帰りの道は下りと言うこともあり、非常に早かったのを覚えています。
6人は各自のペースで歩いてダシュトゥリ・ワートに向かうのですが、隊列が離れた事でまたミキとひらくが泥棒らしき男に襲われかけたのです。

詳しくは省きますが、アフガンとはそういう国なのです。

ところが相変わらず僕は呑気に帰りのキャラバンを楽しんでいます。






5時半起床。夕べは7時頃に着いて相当ゴタゴタした。それは10時出発という優雅な生活がたたったのだ。今日はダシュトゥリ・ワートに着く予定。これから(8時)出発でーす。

11時20分。行きの第一日目のキャンプ地まで後1時間半の地点。川に橋を架ける所に出くわした。橋と言っても丸太が1本。川の対岸(ガケと言った方が早い)を子供と犬を連れた男が川にロープを掛けている。そこに6人の男が集まってきた。これから仕事である。
なかなか始まりそうもない。さすがアフガン。色々な人が集まってきた。ジジイも、子供連れの男、これから次の村に行く行商人。
さーて始まった。3、4人の男が4、5mもある丸太を川に向かって動かしだした。丸太を川に直角にしただけで、また休憩だ。日本人が見てると言っては、僕たちのところに来ては仕事を始めない。
おっ!そろそろだ。丸太の先端にさっきのロープを結んでいる。その間にも対岸の道ではジジイ同士や、馬に乗った人、子供連れの人、道では話がはずんでいる。
丸太はロープに引かれて川を渡りだした。さっきの犬連れの男が対岸でロープを引いている。手前では5,6人の男がもう川に渡ろうとしている丸太を支えている。もうすぐだ。
ついに掛かった。対岸と手前の岸に丸太が1本かかったのである。アラーに祈りが始まり仕事もそろそろ終わりだ。
僕たちもそろそろ出発する。11時45分。
8月9日(水)


徒歩での帰りのキャラバン3日目です。山が深く谷底にあった川も、ここまで下ると道の側で流れています。
道中に出くわした丸太の橋を架ける風景を記録してるようです。

そして、行きは4日かかったキャラバンも、帰りは2日半でダシュトゥリ・ワートに到着しました。
ダシュトゥリ・ワートでゆっくりし、明日はバスでカブールに帰ります。

僕はダシュトゥリ・ワートでも、屋外でシュラフにくるまって夜露に濡れながら寝たのを覚えています。
星が本当に綺麗な夜で、アンジュマンでの生活を思い出しながら夢に誘われるように寝たのです。






我ら5人+1人はダシュトゥリ・ワートに9日の夕方5時頃着いた。
驚いた事にスーフィーの愛想のいい事。ダシュトゥリ・ワートは無事通過(皆んな気持ちよく)KABULへ。

朝5時に出発したバスは途中の村々で停まる。日が出てきた朝7時ころから、バスの屋根に出てきゃーきゃー騒いでいた。途中のブルバハール、チャリカールにはあまり長く停まらず、希望のハルブサなどはKABULまでお預けになった。
KABULに1時半到着。8時間強の長いバスを降りて、さっそくKUME氏宅へ直行。
8月10日(木)KABUL着


5時にダシュトゥリ・ワートをバスで出発した僕らですが、夜が明ける7時頃までは非常に窮屈だったのを覚えています。バスと言っても未舗装の道を狭い車の中で何時間も揺られるのは、それは大変です。

ところが日が昇って暖かくなると僕らはバスの屋根に座ったのですが、これが快適でした。
アフガンのバスは、屋根にも荷物を乗せ乗客が座って鈴なりになって走るのです。

そして道の両側から道にせり出した桑の木から走りながら桑の実を掴み取り、そんな事をするのは僕らだけなのですが、食べると美味しい事!初めて桑の実を食べました。

そして太陽が真上に昇ると僕らは車内に戻り、8時間以上かかってやっとカブールに到着したのです。
しかし(僕には)強行軍とも言えるこのバスの疲労で、後日エライ目にあうのです。








nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

IDEA's Afghan Tour No.6 = アフガンの警官現る! = [Afghan Tour]

 
No.4895(So-net 2607+Diary 2288) 2019年Blog WebDiary Since 2002

コロナ禍でどこにも行けず、写真を撮りに行くことも出来ないので
IDEA's Afghan Tour を So-net にそのまま移してみました。



グレーの囲み記事は1972年当時書いた日記を書き写したもので
水色は2003年9月から10月まで Web Diary で書いたものです。



アンジュマンでのキャンプ生活、4日目から8日目です。

Googleマップでアンジュマンを示しましたが、最大に拡大すると
大きな集落が見えます。そのような大きな集落は通りませんでした。

もしかしたら、Googleマップで示したアンジュマンよりも手前の
小さな湖にテントを張ったのかも知れません。


72072901.jpg
アンジュマン 現地の警官たち
朝早くからPoliceが来てブツブツ起こされた。

2,3日前から僕は一人で荷物テントに寝てる。1人でいて気持ちがいい。
昨日のパンをかじりながら、朝を楽しんでいる。
今日のdreamは北原とスキー、それも人口スキー場。そして体育館で中学校のやつとバスケットだった。
今日だったが、ギャビンの友だち(French)3人ばかり来たようだ。今日はこれまで。

彼らの友だちはなかなか良いヤツら。女の子一人と話したが、英語での会話は楽しかった。
彼女らと釣りに行ったんだ。
昼食後、エリックとギャビンは彼ら3人と一緒に出発していった。

午後はかたづけ。
1972年7月29日(土)キャンプ第4日目


写真は、29日に突然現れた現地の警官です。
代議士という話もありましたが、この中の誰かは確かではないです。
ただ印象に残ってるのは、いままで見た遊牧民と違って非常に精かんだった事です。カッコ良かったのです!

通訳のA1やミキたちと話をしてすぐに彼方に消えました。
僕らがキャンプしているアンジュマンで、前年に拓大のワンゲル部が襲われたのです。その見回りだったと思うのです。

またこの日ギャビンたちの友人が来て、その中に女の子がいました。
この地に女の人を見かけるのはもう一度、ダシュトゥリワートから乗馬で来た子を見るのですが、本当に彼らはたくましいです。
そして彼ら5人は、ワハン回廊に向けて徒歩で出かけて行き、それ以降彼らとは会おう事はありませんでした。







今、学校のスケジュールを見ていた。今、自分は旅行ということで全てを見ようとしているが、結局それではいけないのではないだろうか? つまり旅行も日本での生活もすべて同じでなくてはならないのだ。自分の生きること、その点(生活は点のつながり)を見つけ出してこそ本当なのだ。

今日は遊牧民の子供を追ってみるつもりだ。
7月30日(日)キャンプ第5日目


キャンプも5日目になり、そろそろ日記の様子が変わってきます。

ちょっと理屈が多くなってくるので、日記は読まなくていいです。(笑)

写真は現地の子供です。
フィルムを学研からもらってきたので、真面目に子供の写真を撮り続けてます。(苦笑)

標高が高いので、真夏でも寒く子供たちの格好は冬のようです。







最近ひしひしと、こういう風に日記をつけ日付を追っていくと、全てこの旅行、そして今までの自分の生活が時間という重さで返ってくるのです。

人間は一定の時間しか与えられていないことの重み。自分が今21才で、今日が7月31日の月曜だということ。

・He that reads much and travels much sees much and knows much.
・人間は何を求めているんだ?

過去の時間
7月31日(月)キャンプ第6日目


日記に英語が書いてありますが、僕はいま英語はダメです。
何を書いてるのか、正しいのかも分からないです。(苦笑)

写真は対岸の山の中腹から見たアンジュマンの様子です。
湖の近くにあるオレンジ色がテントです。

手前に遊牧民の住まいが見えます。
ヒツジや山羊の群と、岩の間に焦げ茶色でお椀を伏せたようなのが、糞を重ねて作った彼らの家です。







定着してから一週間目。今日はこれから前にそびえる5000m級の山に登る。

今は山の頂上。9時・・・・
8月1日(火)キャンプ第7日目


この日はタケシのたっての希望で、タケシ、EIJIと僕の3人で目の前にそびえる山に登りました。

5000m級。高度計があるわけではないので確かではないのですが、登るに従い息が苦しく、本当に辛かったのを覚えています。

そして日記を山にも持参したようです。
山の上で書き始めたのですが、インク切れか高度のためか「9時‥」と書いてから字が薄くなって読めません。
山の上で何を思ったのか、読んでみたかったです。







きのうは大変だった。夕方6時頃帰ってきたんだ。高度の関係で息がきつくてTopまで登りつめるのに、時間がかかり、正にヒンズークシの山だった。

一人になりたいという気持ちはまだあるよ。今は旅の途中できのう考えたんだけど、去年、東京から広島、松江~新潟での旅行での考えと今こうしてることと。
結局、同じなんじゃないかな? 考えるっていうことは人間だけ! だからすべて観念の世界なんだ。地球が平らに見えようが、宇宙は地球のまわりだけでプラネタリウムみたいであろうが、科学がいくら発達しても、その人間にとってそういう真理は、その人間に関係があることだけなのだ。だからその人間の観念の世界が問題なのだ。
8月2日(水)キャンプ第8日目


EIJIとの記念撮影。タケシが撮影しました。
下に小さくオレンジ色のテントが見えるのですが、分かりますか?

実はタケシも最近やっと連絡が取れ、忙しい中ここを見て頂いてます。
彼はいま多摩美の教授で活躍していて、今月10月の学会の準備で忙しいと言っていました。

そんなわけで彼のこの山の写真を探したのですが、残念な事にアンダーやオーバーの露出失敗でどれも良い写真がないのです。
申し訳ない!







ここに5人の日本人がAFGHANの山奥に何をしているのだろう? 今ふと思ったのだが、みんなくるってるのじゃない? 僕も含めて。全体じゃないかな。今自分自身は平気かな?

8月1日はアッコの生まれた日だって。EIJIが山の上で思い出していた。

◇カブールに帰ってからする事
 買い物:Travel Root 決定 & EIJIとの関係;
 荷物check;Tokyoへの荷物

今日テントを交換したのだ。very good !

おみやげも大変だぞ。今ちょっと考えただけでも大変。KABULで1日ですまして早くFreeになって出かけたいヨ。荷物を出来るだけ少なくして、出来るならショルダー1個にしたい。

人間にとっての旅行。今本当なら自分は学校に行かなくてはならないという現実がある。そういう現実があるにもかかわらず、今ここにこうしていられるという事は、一種の逃避ではないだろうか? 日本を出る前、逃避であることは分かっていた。それを『今、マイナスの生活をしている』と表現していた。

リクリエーション‥‥→Travel では、人が生きるということは辛く、苦しい事なのだろうか? だからスポーツとか旅行があった。人間を一種の逃避の状態において、その現実から逃れているのだろうか? その1つにLoveもあるのか? 人間が一人でいることの苦しさを相手を求める事で、愛という形で忘れていくのではないか?
8月2日(水)キャンプ第8日目


これがヒンズークシの山々です。
(正しくはヒンドゥークシュですね)
この先にカラコルム山脈、そしてヒマラヤと続きます。

この写真は800x600に画素数変更してるので分かりづらいのですが、ここにも小さくテントが写っています。









nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

IDEA's Afghan Tour No.5 = アンジュマンのキャンプ生活 = [Afghan Tour]

 
No.4894(So-net 2606+Diary 2288) 2019年Blog WebDiary Since 2002

コロナ禍でどこにも行けず、写真を撮りに行くことも出来ないので
IDEA's Afghan Tour を So-net にそのまま移してみました。



グレーの囲み記事は1972年当時書いた日記を書き写したもので
水色は2003年9月から10月まで Web Diary で書いたものです。



いよいよアンジュマンでのキャンプ生活が始まります。

Googleマップでアンジュマンを示しましたが、最大に拡大すると
大きな集落が見えます。そのような大きな集落は通りませんでした。

もしかしたら、Googleマップで示したアンジュマンよりも手前の
小さな湖にテントを張ったのかも知れません。



さっそくミキが釣りに行く

前のばん、雨が降って非常に寒かったヨ。

土地のガキがいっぱいくる。
1972年7月26日(水) キャンプ第1日目


アンジュマンは標高3500mくらいにある小さな湖です。

ワハン回廊へ抜ける通り道になっていて、そこかしこにアフガニスタンの遊牧民たちが、ヒツジや馬の糞の固めて作った粗末な家に暮らしています。

点在すると言っても、何キロおきに1つまた1つと、僕らの感覚からすると何もないと言ってもおかしくないほどなのです。

ところがすぐに情報が伝わって、その遊牧民の子供たちが僕らのキャンプを見に来たのです。






72080401.jpg
8月4日(金)(写真撮影日)
シャワーを沐浴をした。
今日このごろ、ペースが一定なので何をやったか思い出すのがやっと。

ミキとギャビンが釣り。

EIJIとタケシが山登り。
 
エリックとA1がひつじ探し。

僕とひらくがテント守り。

ヒツジを明日食うことに決定 
7月27日(木) キャンプ第2日目 日記の日付


写真は8月4日のものです。
キャンプ当初の写真に、キャンプ地をお見せするものがなかったので、後日の写真をもってきました。

このように湖のすぐ近くにテントを2張りし、キャンプが始まりました。
キャラバンで知り合ったフランス人二人、ギャビンとエリックもキャンプに合流しました。

二日目にしてすでに退屈が始まってますね。
うん? 明日はヒツジを食べるのですか?










朝は、はよからチョコレートパン

10時ころから、ヒツジkillだ

12時ころからFireにかけて

くった、くったヒツジちゃん

全部写真に取りました。

今日の食事は全部パンでしたよ。

あーぁ、もっと考えなくては。パーになるぞ。パーに
7月28日(金) キャンプ第3日目


これが衝撃映像です。そうでもない?(笑)

ヒツジは通訳のA1とエリックが遊牧民から買ってきました。
いくらだったかなー。忘れましたが、非常に安かったのは確かです。

ヒツジを写真のようにA1と遊牧民が首を落とし、その後の丸裸にする作業は僕らでやりました。

内臓はA1が「これはあなた方には食べれない。私が食べます」とほとんど持っていって自分で煮込んで食べてました。
いま考えると、あの内臓が一番美味しいかったのでは?







ギャビン、ミキ、タケシ、EIJI 手前の茶色のが、ヒツジちゃん

7月28日(金) キャンプ第3日目


そして、内臓を取った肉をショットガンの銃身を掃除する鉄棒に刺し、丸焼きにしました。

すると、ここでまた学習する事が起きました。
僕らはそれまで肉を食べる時によく焼いて食べていたのですが、一緒になったフランス人二人はまだ火が通るか通らない生焼けの肉をどんどん食べるのです。
これには参りました。僕らがじっくり焼いて食べようと思うと、フランス人は端から生焼け肉を食べていくのです。食べ物の恨みで、一時は険悪な雰囲気に。(ウソです。笑)

とにかく僕はこの件以来、肉はレアーで食べるようになりました。








7月28日(金) キャンプ第3日目


写真は、食後にショットガン(散弾銃)で遊ぶ僕です。

散弾銃の弾は、直径2cm長さ7cmほどの筒状の玉を一発銃身に入れて打ちます。
その弾の中に、5mmほどの細かい鉛の粒が入っていて、それが散乱して当たるのです。ですから射撃に慣れてない人でもそこそこ的に当たります。

僕らは板に人形の絵を書いて、当てる競争をしました。
まさかそれが役立つとは知らず……









nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感

IDEA's Afghan Tour No.4 = ダシュトゥリ・ワート村からアンジュマン峠へ = [Afghan Tour]

 
No.4893(So-net 2605+Diary 2288) 2019年Blog WebDiary Since 2002

コロナ禍でどこにも行けず、写真を撮りに行くことも出来ないので
IDEA's Afghan Tour を So-net にそのまま移してみました。



グレーの囲み記事は1972年当時書いた日記を書き写したもので
水色は2003年9月から10月まで Web Diary で書いたものです。



早朝カブールをランドローバーで出発し、その日のうちに
ダシュトゥリ・ワート村に到着します。

その場所なのですが、いまはGoogleマップで見れますが
当時はその手段がなくて、場所が不確かなのです。

Googleマップでアンジュマンを示しましたが、最大に拡大すると
大きな集落が見えます。そのような大きな集落は通りませんでした。

そして、その手前に湖がいくつか見えます。

もしかしたら、Googleマップで示したアンジュマンよりも手前の
小さな湖にテントを張ったのかも知れません。



ダシュトゥリ・ワート村 通訳のA1と話すミキ
7月21日(金)(写真撮影日)
ダシュトゥリ・ワートは馬の村。昨日ランドローバーは40$+1400Af.で少々割高についた。

朝8時頃起床。昨日の初めてのCookingを思い出し、朝食。
9時馬方を集め、10時出発。

12時、ミキと馬方がもめる。

4時、Camping
1972年7月22日(土)日記の日付


地図を見て頂きたいのですが、カブールの北にチャリカールがあります。そこから右側一帯に海抜4000mを越すヒンドゥークシ山脈が横たわります。
そしてその先のタジキスタンの下に、象の鼻のように突き出たところがあります。そこはワハン回廊と呼ばれロシアの南下政策のために出来た人為的な国境地帯で、タジキスタン(パミール高原)、中国(新疆ウイグル自治区)の秘境へ抜ける道があるのです。
我々はその中国国境へ抜ける途中の、アンジュマンというところに行こうとしているのです。

我々が前日着いたダシュトゥリワートは、チャリカールから100kmほど行ったところ(オレンジの地図のバグランの「ン」の下あたり)にあり、ここから先は道が険しく、馬と徒歩でしか行けないのです。







ダシュトゥリ・ワート村
7月21日(金)(写真撮影日)




ダシュトゥリワートで一泊した我らは、馬方を雇いテントなどの荷物をランドローバーから馬に載せ換えアンジュマンに向けて出発しました。

馬の数は6頭くらいだったと思います。右手にアンジュマンにつながる川を見ながら隊列をなし、まさにキャラバンを組んで一路アンジュマンを目指すのです。







キャラバン4日目 アンジュマンpassへ
7月25日(火)(写真撮影日)
6時起床、朝食の後8時まで出発準備完了 but 馬方動かず。馬方と我々の対決。
9時出発。

10時半、馬方と我々の対立。1時間半。
12時、1人1800Af.でアンジュマン出発に決定。(1日300Af.はAfghanTouristで決定していた)

2時、昼食。多少おそいのである。

5時、馬方1日1800で元気になり、よく働く。
Camping
7月23日(日)日記の日付


アンジュマンへは7/22~25日と4日間かかって到着します。

写真と日記の日付が合いません。日記を読んで思い出したのですが、写真は担当を決め僕が最終日の25日の当番のようでした。
25日の写真しかなくて残念です。途中初日は川がすぐ側を流れ綺麗な景色があり、二日目、三日目と高度を上げるに従い、遙か下に川を見ながらガレキの道を進む景色に変わっていきます。

この写真は、このあたりからアンジュマンpass(=峠)に向けて最後の登りです。写真は午前中だと思います。天気もよくまだ快適です。

そして日記ですが、馬方との値段の交渉は最終日まで続きます。アフガンとはそういう国なのだと、思い知らされます。







キャラバン4日目 アンジュマンpassへ
7月25日(火)(写真撮影日)
7時半起床、9時出発。

だんだん高度を上げていく。
馬のローテーションで今日は1日目のEIJIの馬。非常に快適である。

午後からは非常に良かった…。
山が急なので、馬から下りて歩いたのである。ゲリを伴って、非常につらいと言うか面白かったのである。

5時Camping. 同じ場にFrance 2人がCampのためテントを貸し合同する。
非常に寒い。高度のせいだろう。
7月24日(月)日記の日付


4日間のキャラバンで、それまで乗馬の経験は皆無でしたが、馬に乗ることを覚えました。ただ馬によって良い馬と駄馬があって、ダメな馬にあたるとそれは歩かないのです。グズって前に進まないのです。あれは乗り手を見てたのでしょうか。

さて日記に「France 2人」とありますが、3日目の夕方、少し水深のある川を渡ろうと浅瀬を探していたら、フランス男二人と出会いました。 彼らは僕らが馬で来た場所まで、徒歩で来ていたのです。その装備は大きなリュック1つで、我々のキャラバンとは大違いの軽装です。 そして僕らが馬で渡った川を、フランス人は靴を脱いで素足で渡り終えたとこだったのです。 アンジュマンでもう一組のヨーロッパ人に会うのですが、彼らも軽装で、その事が僕の旅行の考え方を根本から変えたのです。






72072505.jpg
僕とタケシ
8時出発。
いよいよアンジュマンに向けて出発である。今日は僕が撮影班。

11時、pass(=峠)のまえである。我々は昼食はなし。
3時間休みの後、いよいよpassへ出発。
7月25日(火)キャラバン4日目


やっと写真が日記に追いつきました。

キャラバン最終日で、念願のアンジュマンに向けて出発です。
午前中は写真のように日ざしもあり、快適でした。

ところが高度を上げるのしたがい、本当に寒くなってくるのです。
回りには雪もあり、風も出てきてます。

疲れでも出てくるのですが、夕方には湖に着かなくてはならないので、休憩もそこそこに先を急ぎます。







ミキとタケシ

7月25日(火)キャラバン4日目


同じ昼休憩でのミキとタケシですが、見て欲しいのはミキの脇の下の拳銃です。(ホント!バカでしょ。)

出発前にカブールでミキが買ったものです。拳銃の他にショットガンも買いました。
ミキは、ここアフガニスタンに何度も来ていて事情に詳しく、僕らのガイド役でした。拳銃の購入も普通では買えないのですが、バザールの一見拳銃などない店で、交渉すると裏へ手招きされ拳銃を見せてもらい買ったのです。
僕らは興味はありましたが、半分冷ややかで彼がキャラバンの道中にトカゲを見つけては打っているのを眺めていました。
僕も拳銃を打ちました。アフガンのトカゲは全長が50cmもあり、ワニの子供かと思うほど本当にデカいんです。でも、当たらない!
3発ほど打ちましたが「玉がムダだ」とそれっきり打たせてもらえませんでした。

そんなわけで、ミキの道楽と思っていたのですが、それがそうではなかったのです。話はまたその時に書きます。








ついにアンジュマンpass!
3時半、だらだらのU字谷を登りつめ、ついにアンジュマンpassに出た!
本当に寒い。日本では暑いSUMMERだといいうのに…雪があるのです。

passからの下りは歩き。Lakeまでの途中、ずーっと歩き。つらかった~

5時、Lake到着。

馬方と1800でまたもめる。本当にアフガンはPoorなのだ。

Bass Camp
7月25日(火)キャラバン4日目


やっと峠に到着しました!
あまりいい写真ではないのでお見せしたくなかったのですが、強風で顔が歪んで誰の顔か分かりませんよね。
(25日のフィルムは全部保存状態が悪いです。ゴミの修正もしないでアップします)
そう言えば、風呂にもここ数日入ってなくて髪もボサボサ。風呂はこれから先、何週間も入らないのです。

さて、この地点で標高3500mと聞いてました。そう。富士山より高いのです。遠くに念願のアンジュマンの湖が見えます。
あともう少し。
ところが、近いようでここからが時間がかかり、湖に着いたのは5時頃で、あたりは山に囲まれているのでほとんど暗かったのです。

この日は強行軍で寒さと疲労でくたくただったので、到着してから食事の準備などする気力も起きなかったのですが、ここでタケシの一声がかかります。
「食べないと体がもたない!」とみんなを激励して、食事の準備を始めたのです。彼は山岳部に所属した事があり、山の厳しさを身をもって体験していたのです。あの時のタケシはカッコ良かったです。
僕はまた一つ学びました。









nice!(2)  コメント(0) 
共通テーマ:日記・雑感
前の10件 | - Afghan Tour ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。