No.4890(So-net 2602+Diary 2288)
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コロナ禍でどこにも行けず、写真を撮りに行くことも出来ないので
いままでずっとやりたいと思ったいた「
IDEA's Afghan Tour」を
So-netにそのまま移してみます。ファーマットは違えど、そのままです。
単なる暇つぶし。単なる懐古趣味。お許しください。(笑)
グレーの囲み記事は1972年当時書いた日記を書き写したもので
水色は2003年9月から10月まで Web Diary で書いたものです。
また、写真はクリックして大きく見れるようにしました。
ニューデリー空港 左が僕で、右がひらく
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朝On TimeでTokyoを出発。朝の模様は、、
台北、香港は暖かい街。香港はもう一度行ってみたいネ。
夜、Bangkok現地時間6:30到着(8:30)
ASIA HOTELバスで直行。部屋は$11のままの部屋。夕食時の緊張感はいまだ忘れがたく。
very tired...
Bongkokの街は、ざつ然、ワイセツ、‥‥、でも南国の夜、中国人、それで僕たちが外国人
どうすれば good なのか‥‥
まあ、それが言葉に対する恐怖をなくしてくれた。どうにかなる。ていうものよ。
その夜、shit をやって水のんで腸 悪くした。水にはくれぐれもご注意
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1972年7月6日(木) Tokyo → Bangkok
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これから、IDEAのアフガン旅行にお付き合い下さい。
ほとんど原文の日記と写真、そして解説で構成します。
日記は自分でも判読出来ない文字もありますが、出来るだけ忠実に書きたいと思います。
まずメンバーです。この旅行は当時多摩美術大学2年の僕と、EIJI、
3年のミキ、ひらく、タケシの5人で、計画し出掛けていきました。
当初の目的は、アフガニスタンの首都カブールから200キロほど離れた、中国国境に近いアンジュマンという湖でキャンプをする事です。
その後5人はヨーロッパ方面、東アジア方面にバラバラなり、旅行を続けるという計画でした。
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ニューデリー空港 左からミキ、ひらく、タケシ
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ひらくが Camera をなくした。
place and time は全然分からない。一因はミキにある。自分の荷物は自分で、自分の命は自分で。
腹は condition 悪いし、ミキは態度悪いし‥‥
まあ good ruck , Have a nice day でいこう!(機上で)
THAI AIR はダッカに到着のち、ニューデリーに現地時3:30ごろに着く。
2時間後、アリアナAIR で KABUL 6時着。
ダッカはバングラデシュの地。さすがに飛行機からは出られず、蒸し暑さを満喫したのである。
ニューデリーはインド人の街。Air port だけだが、何か異様。
アリアナのplane は日本人が何故だか多く、安心してしまった。
スチュワーデスが美人で特に目がすばらしい!
KABUL はdry air でパキスタンやインドとは全然違うわけで、
airport は山に囲まれ、その山が木のない坊主山、僕にはすばらしく映った。
その晩はミキの友人のKUME氏宅で一晩やっかりになる。 |
7月7日(金)Bangkok →
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初日は羽田からタイ航空で飛び立ち、大阪、台北、香港のそれぞれの空港で降り、トランジットのためバンコックで1泊しました。
バンコックの夜に街に出て、僕は初めて海外を体験しました。
言葉の通じない国でのこれからの旅行を思うと、緊張感で一杯です。
翌日ダッカで降り、インドのニューデリーで飛行機をアフガニスタン・アリアナ航空に乗り換えます。
そしていよいよアフガニスタンの首都カブールに到着するのです。
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カブール市内 タバコ屋の店主と少年
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朝、9:00頃起きる。JAPAN EMBASSYから、Mrs.___? の U.N. にメンバー5人の顔見せである。
Mrs.___? は非常によい人。雑談の後 PM2:00頃ブラックに直行。
Money Change $1→ 84Af. $30 Change する。
バザールは色々ごちゃごちゃ。7時頃まで歩いたが、Afghanの生活がわかってきた。
マーケットからはずれた所で、KABULの普通の生活(まだわからりはしないけど)の街? 通ってみる。
外人とみて Chai をゴチソウになる我ら。バザールは明日もいってみる。チャイは1Af,
ホテルを決めた後、ヒッピーのたまり場シギスで夕食。
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7月8日(土)
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アフガニスタンでの生活が始まりました。
このアンジュマンでのキャンプの計画は、そもそも1年先輩のミキが前年にアフガニスタンに行って来た事から、彼らの仲間で計画が始まっていました。
僕とEIJIは1年の時から大学に籍があるものの、吉祥寺や下北沢のライブハウスに出入し仲間が増え、1年の秋には大学のキャンパスでロックコンサートを企画し、開催していました。
そんな関係でミキ、ひらく、タケシ達先輩と知り合い、僕らが2年の時には学年の違う5人が集まり、旅行する事になったのです。
アフガニスタンは当時ソ連侵攻の6年ほど前で、中国国境近くまで行くには政府の許可が必要で、そのためカブールに到着後2週間ほど日本大使館などに出向いたりして、時間を過ごす事になるのです。
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カブール市内 ハルブサ売りのオヤジと子供
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早朝5時頃起きてシャワーをあびる。非常につめたいが快適である。
ミルクを飲み、朝食をすませてから、(ホテルの前にシャイハナとパン屋とミルク屋がある)
10時頃買い物に出掛ける。
革カバン、アフガンコートだが、なかなか良いのがない。
昼に一度もどり朝食。(カバブが12、チャイは2Af.)をすませた後、僕は外があまり暑いので昼寝をすることにした。
午後は皮屋をもう一度見て、あまり良いのがないので、現地シャツを2枚180Af.で買ったのだ。
夕方はシギスですごす。
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7月9日(日)
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アフガニスタンの首都カブールは高原の非常に乾燥した街です。
カブール空港に降り立ったその瞬間、鼻の粘膜が乾いて呼吸が苦しいほどで、しばらくして鼻血が出ました。
ただ、その乾燥も慣れると快適で、外は気温が40度もあって暑いのですが、いったん木陰に入ると快適なのです。
その乾燥した土地のお陰で、ハルブサ(スイカ大のメロン)が非常に安くて美味しかったです。1つ確か2~3Af.だったと思います。毎日食べてました。
ここで通貨と物価の事を書いておくと、Af.でアフガニーと読みます。前日の日記にブラックマーケットで1ドルを84Af.で交換と書いてあるので、今の物価で1Af.=¥1.5くらいでしょうか。
ですからカバブ、つまり羊の肉の串刺しが12と書いてますので、18円になります。物価は驚くほど安いのです。
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カブール市内 ホテルの部屋から、朝の風景
外人相手のパン屋が見え、手前のオヤジは朝のチャイをしてます。
その前は何か物売りの準備です。
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あ~ぁ.まいった。
10日の夕方にモタメディ夫人の家でDinner Partyしていたら急にからだがColdになったのだ。
10、11、12と丸三日寝ていたのだ。寝びえ、生水だけは気を付けたまえヨ!
本当にまいった。まいった。
今日は朝から起きて(まだ多少熱っぽいのだヨ)Breakfastをして、今こうしているところ。
夕べ、Embassy of Japanの岡田氏の所でPartyを開いて、また花火をなのだ。夕食が最高でありました。
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7月13日(木)
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カブールに着いた日の夕方は在アフガンの日本人宅に泊まり、翌日の7/8にホテルを決めました。
ホテルと言っても僕等が泊まるのは外人相手の安い宿屋で、狭い部屋にスノコのベッドがあるだけで、確か1泊50Af.くらいだったと思います。ですから1泊75円くらいですか? とにかく物価は安いのです。(いまでも変わらないと思います)
そして、写真にあるようにホテルの目の前には、外人相手のパン屋があり、その隣りに現地の人たちが使うチャイハナがありました。
チャイハナはチャイ(お茶)を飲み、カバブ(シシカバブ=羊肉の串刺し)など軽い食事が出来ます。
そこに初めて入った僕は驚きました。
テーブルに出てきた水は白濁し、出されたカバブには飛んでいたハエが何匹もとまるのです! そしてそのハエは顔や口にもとまります。
ハエを追い払いながら食事をするのです!
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