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IDEA's Afghan Tour No.3 = カブールからダシュトゥリ・ワートへ = [Afghan Tour]

 
No.4892(So-net 2604+Diary 2288) 2019年Blog WebDiary Since 2002

コロナ禍でどこにも行けず、写真を撮りに行くことも出来ないので
IDEA's Afghan Tour を So-net にそのまま移してみました。



グレーの囲み記事は1972年当時書いた日記を書き写したもので
水色は2003年9月から10月まで Web Diary で書いたものです。



カブールからチャリカール、そしてダシュトゥリ・ワートへの道順です。

カブールの位置は適当にマークしました。
チャリカールはGoogleマップにあるので、間違いないのですが

ダシュトゥリ・ワートはGoogleマップになくて不確かです。
昔はGoogleマップなどという便利なものがなかったですからね。



KUME氏宅 左からミキ、僕、タケシ、ひらく

1972年7月18日(火)


カブールで何かとお世話になったKUME氏宅で、くつろぐ僕らです。

7/7にカブール入りして始めの1週間ほどは、乾燥した空気、食事、言葉など全てが異質の世界で、緊張からか一時体調を崩したりしましたが、この頃には以前からアフガンにいたと思えるほど、写真にも余裕が伺えます。

現地人との買い物などでの会話。シギスでヨーロッパ人との会話。
いま思うと始めは緊張してました。

写真で注目なのは、僕がタバコを吸ってる事です。(笑) そして裸足。
食後の気だるい時間かな。気温は40度近いと思います。







カブール、シャビスタン・ホテル タケシ、タケシのお兄さん
19、20日の両日は買い物で終わりました。
20日朝の時点では22日出発が、今日の午前中に明日21日出発に変更されたのです。

今日は、タケシ兄がシャビスタン・ホテルに来ました。連れインド人1、日本人2。

夜は、パッキングもそこそこに8時頃KUME氏宅へ。
パッキングを11時頃終え、これからハッシできめて寝ます。
7月20日(木)


日記を見て思い出したのですが、日本からタケシのお兄さんがカブールまで来て、我々に会いに来たのです。

ずいぶん疲れた様子です。(笑)

当時海外との連絡はほとんど電話は使わなかったのですが、それでも不思議な事に「何日のどこどこに行く」という連絡が確実に取れて、このようにピンポイントで会うことが出来たのです。 同じように旅行者同士の口伝ての情報も割りと正確に伝わりました。

さて、いよいよ明日はアンジュマンに出発です!






72072101.jpg
カブール、チャリカールのハイウェイ
5時起床。モタメディ夫人の関係のランドローバーである。

6時15分、荷物を積み込み終わり。シャビスタン・ホテル前を出発。
interpreterのA1とひらくをピックアップ。

6時半、野菜市場で買い込み。

8時、アフガンの農村を一路アンジュマンへ。

11時、休憩地点チャリカール到着。A1(注)のジャンパー、塩、砂糖など購入。
私めは、布、たばこ等買い入れ。

<注:僕らが雇った通訳で、A1は僕らが付けたニックネーム>
7月21日(金)


このキャンプは、チャリカール(地図を参照)を経てダシュトゥリ・ワートまで車で行き、ダシュトゥリ・ワートから馬方を雇い馬と徒歩で数日かけてアンジュマンまで行きます。アンジュマンで何週間か滞在した後に、カブールに戻るという計画です。

写真はカブールからチャリカールへ至るハイウェイです。ハイウェイと言っても普通の舗装された道なのですが、アフガンでは舗装されている道は街と街を結ぶ生命線で、それだけでありがたいのです。(後に、無舗装の道を何日も旅行する事になる)

写真では右側に人が歩いていますが、この様に何十キロも回りに何もない道を、人や羊を連れた一団がトボトボと歩いているのです。







チャリカール近くの村 背中タケシ、顔が僕、右がEIJI
2時、途中の村を2,3通り、食事をした後

(その食事、非常に良い物を食べた。からし…)
7月21日(金)


上のinterpreterは通訳の事でtranslatorと同じ意味で書いてます。
英語を書きたがるのは、出来るだけ英語を使っていたいという気持ちの表れで、無理もないのです。

写真はチャリカールからダシュトゥリ・ワートへ向かう途中で、休憩する我らです。僕が石垣の向こうでタケシと連れションしてるので、撮影はミキだと思います。

ミキは1学年先輩なのですが、学費を自分で工面するなど大人社会で生活していたので、僕らより何年も大人びていました。遊びにかけても年長者だったのです。だから、こんな写真はミキなのです。
ミキのバカな様子はこの後の写真にも出てきます。







アンジュマンへの川
ついに、アンジュマンへの川(名前は忘れた。この川を最後まで、さかのぼっていくのだ)に出た。

ランド・ローバーは4輪駆動にしてないので、坂には非常に弱い。いくつかのトラブルがあった。

4時、ダシュトゥリ・ワートに着く。スーフィーいわく「ありがとう」

<注:スーフィーは確か、A1と同一人物だと思われる。>
7月21日(金)


上の「からし」は何を食べたんだろう? アフガンの料理はカバブ(羊肉の串刺し)など羊料理と後はナン。ナンはインドパンと同じイーストの入らないパンで、フスマ(小麦粉カス)が入っていてボソボソしてました。
後はカレー味の羊の脂ギトギトのスープとか記憶にありますが、現地ではナンもこのスープもそこそこ美味しく食べてました。

さて、ランドローバーの旅は1日だけで、多少トラブルがあったものの快適でした。写真と日記にあるようにアンジュマンへは、この川を最後まで遡ります。そして目的地は、この川の分水嶺で3500mの峠を越えた先にある湖なのです。 写真に川で遊ぶ子供たちが写っています。そして木が豊かです。水があり、木がこんなに茂っている風景はアフガンでは珍しいのです。









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IDEA's Afghan Tour No.2 = カブール市内 = [Afghan Tour]

 
No.4891(So-net 2603+Diary 2288) 2019年Blog WebDiary Since 2002

コロナ禍でどこにも行けず、写真を撮りに行くことも出来ないので
IDEA's Afghan Tour を So-netにそのまま移してみました。



グレーの囲み記事は1972年当時書いた日記を書き写したもので
水色は2003年9月から10月まで Web Diary で書いたものです。


72071101.jpg
カブール市内 薪を割る少年

1972年7月11日(火)


前日7/13からしばらく日記が飛ぶので、写真だけアップします。
写真はホテル前の朝の風景です。

この地域は外人相手のホテルやレストラン、コーラや外国製のタバコを売っている雑貨や(日本のアメリカン・ファーマシーのような店)など数多くあり、カブールの中でも小綺麗な場所でした。

そして忘れてはならないのは、流れてくる音楽です。
インドやイランの音楽を思い出してもらうと近いと思います。あの独特の音楽がどこからか流れてて、アフガニスタンの朝が始まるのです。







カブール市内 シギス中庭(レストラン)

1972年7月14日(金)


そしてこれがレストラン「シギス」の中庭です。

ここは日記にもすでに何回か書かれていますが、外人、特にヨーロッパからの旅行者のたまり場でした。

その当時は中近東の旅行がヨーロッパを中心に流行っていて、陸路イスタンブールを経由して、カブールまで主に学生たちが来るのです。ボロのワーゲンバス(まん丸い形のWマークのバン)や、フランスのドゥシボ(トタンで作ったような小型車)など、それは気楽に国内旅行の雰囲気で来るのです。その点飛行機を乗り継いでやっと来た僕らと、旅行のとらえ方が大きく違う事に驚かされるのです。

シギスでの思い出はビートルズの「アメージンググレイス」
いまではゴスペルの曲として有名で、先日の9・11でもよく流れたました。でもその当時はビートルズのオリジナルだと勘違いするほど、ここシギスでよく聞いてました。

写真では分かりませんが、手前にオープンカフェ風の椅子があり、チェスの左側の室内にテーブル席がありました。そこでは、当然のようにハシシの香りが漂い、異国にありながら「シギス」はヨーロッパだったのです。







カブールのホテル 右がタケシ。シャワーを浴びました。
体の調子がなんとか元にもどってきたのである。
昨日、今日と出発の準備で、今日はOLDバザールまで出かけて行ったのであります。

Translator(注=通訳)はあまり使えずボツに決定。残り色々手を打ってみる。

今思ってみると、なぜ体を悪くしたか? それはホテルにいて何かと自分を働かせる、緊張させるモノがなかったタメだと思うのです。ですから今日など正に快調ですヨ。

出発してから12日目。そろそろ2週間ともなると体がむずむずしてくるのがわかる。一時も早く山に入りたいものなのです。

もっとFreeになりたい。
7月15日(土)


写真は僕らがアンジュマンに出発する7月21日まで借りていたホテルです。
5人で2部屋を借りてました。

部屋の大きさはいまの狭いビジネスホテルとほとんど同じです。ベッドに小さなサイドボードがあって、それでいっぱいの大きさです。
ベッドも、写真の椅子と同じ作りでクッションはありません。
そして写真はタケシがシャワーを浴びたところですが、確か水しか出なかったと思います。

ちなみにタケシは現在、多摩美術大学の教授になっていました。旅行の後に何度か会いましたが、ここ10数年会ってないです。
このサイトを作った事を切っ掛けに連絡を取ってみようと思います。







カブール市内

7月16日(日)


写真は日記によく出てくる「KUME氏」の近所の風景です。

カブールでも外国人が住む高級住宅街で、閑静な町並みです。

KUME氏は青年海外協力隊の方で、お子様はまだおられずご夫婦でカブールにお住まいの方でした。
日本では一技術者なのですが、カブールでは高級住宅街の一軒家にメイドと住み、快適な暮らしをしてらっしゃいました。







カブールの日本大使館前にて
今日一日手紙を書いた。オキヨから手紙が見て、ゆきのからも来た。だから僕も書いた。

今日は一日何をしたかというと何もしなかった。午後に通訳さん(大学の人)と会う予定が、人が来ない。

あーぁ、ここに来て12日目だぞ。あーぁ、早くどうにかしたいよ。
7月18日(火)


いよいよアンジュマンに出発する直前で、出発の日程がまだ決まらず僕の気持ちの苛立ちが日記に出ています。

若さってこういう事なんだなと、いま読み返すと思うのです。







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IDEA's Afghan Tour=Tokyo→Bangkok→Dhaka→New Delhi→Kabul = [Afghan Tour]

 
No.4890(So-net 2602+Diary 2288) 2019年Blog WebDiary Since 2002

コロナ禍でどこにも行けず、写真を撮りに行くことも出来ないので
いままでずっとやりたいと思ったいた「IDEA's Afghan Tour」を

So-netにそのまま移してみます。ファーマットは違えど、そのままです。
単なる暇つぶし。単なる懐古趣味。お許しください。(笑)



グレーの囲み記事は1972年当時書いた日記を書き写したもので
水色は2003年9月から10月まで Web Diary で書いたものです。

また、写真はクリックして大きく見れるようにしました。


72070701.jpg
ニューデリー空港 左が僕で、右がひらく
朝On TimeでTokyoを出発。朝の模様は、、
台北、香港は暖かい街。香港はもう一度行ってみたいネ。

夜、Bangkok現地時間6:30到着(8:30)
ASIA HOTELバスで直行。部屋は$11のままの部屋。夕食時の緊張感はいまだ忘れがたく。
very tired...

Bongkokの街は、ざつ然、ワイセツ、‥‥、でも南国の夜、中国人、それで僕たちが外国人
どうすれば good なのか‥‥
まあ、それが言葉に対する恐怖をなくしてくれた。どうにかなる。ていうものよ。

その夜、shit をやって水のんで腸 悪くした。水にはくれぐれもご注意
1972年7月6日(木) Tokyo → Bangkok

これから、IDEAのアフガン旅行にお付き合い下さい。

ほとんど原文の日記と写真、そして解説で構成します。
日記は自分でも判読出来ない文字もありますが、出来るだけ忠実に書きたいと思います。

まずメンバーです。この旅行は当時多摩美術大学2年の僕と、EIJI、
3年のミキ、ひらく、タケシの5人で、計画し出掛けていきました。

当初の目的は、アフガニスタンの首都カブールから200キロほど離れた、中国国境に近いアンジュマンという湖でキャンプをする事です。
その後5人はヨーロッパ方面、東アジア方面にバラバラなり、旅行を続けるという計画でした。







ニューデリー空港 左からミキ、ひらく、タケシ
ひらくが Camera をなくした。
place and time は全然分からない。一因はミキにある。自分の荷物は自分で、自分の命は自分で。 腹は condition 悪いし、ミキは態度悪いし‥‥
まあ good ruck , Have a nice day でいこう!(機上で)

THAI AIR はダッカに到着のち、ニューデリーに現地時3:30ごろに着く。
2時間後、アリアナAIR で KABUL 6時着。

ダッカはバングラデシュの地。さすがに飛行機からは出られず、蒸し暑さを満喫したのである。 ニューデリーはインド人の街。Air port だけだが、何か異様。

アリアナのplane は日本人が何故だか多く、安心してしまった。
スチュワーデスが美人で特に目がすばらしい!

KABUL はdry air でパキスタンやインドとは全然違うわけで、
airport は山に囲まれ、その山が木のない坊主山、僕にはすばらしく映った。

その晩はミキの友人のKUME氏宅で一晩やっかりになる。
7月7日(金)Bangkok →

初日は羽田からタイ航空で飛び立ち、大阪、台北、香港のそれぞれの空港で降り、トランジットのためバンコックで1泊しました。

バンコックの夜に街に出て、僕は初めて海外を体験しました。
言葉の通じない国でのこれからの旅行を思うと、緊張感で一杯です。

翌日ダッカで降り、インドのニューデリーで飛行機をアフガニスタン・アリアナ航空に乗り換えます。

そしていよいよアフガニスタンの首都カブールに到着するのです。







カブール市内 タバコ屋の店主と少年
朝、9:00頃起きる。JAPAN EMBASSYから、Mrs.___? の U.N. にメンバー5人の顔見せである。 Mrs.___? は非常によい人。雑談の後 PM2:00頃ブラックに直行。
Money Change $1→ 84Af. $30 Change する。

バザールは色々ごちゃごちゃ。7時頃まで歩いたが、Afghanの生活がわかってきた。
マーケットからはずれた所で、KABULの普通の生活(まだわからりはしないけど)の街? 通ってみる。
外人とみて Chai をゴチソウになる我ら。バザールは明日もいってみる。チャイは1Af,

ホテルを決めた後、ヒッピーのたまり場シギスで夕食。
7月8日(土)


アフガニスタンでの生活が始まりました。

このアンジュマンでのキャンプの計画は、そもそも1年先輩のミキが前年にアフガニスタンに行って来た事から、彼らの仲間で計画が始まっていました。
僕とEIJIは1年の時から大学に籍があるものの、吉祥寺や下北沢のライブハウスに出入し仲間が増え、1年の秋には大学のキャンパスでロックコンサートを企画し、開催していました。
そんな関係でミキ、ひらく、タケシ達先輩と知り合い、僕らが2年の時には学年の違う5人が集まり、旅行する事になったのです。

アフガニスタンは当時ソ連侵攻の6年ほど前で、中国国境近くまで行くには政府の許可が必要で、そのためカブールに到着後2週間ほど日本大使館などに出向いたりして、時間を過ごす事になるのです。







カブール市内 ハルブサ売りのオヤジと子供
早朝5時頃起きてシャワーをあびる。非常につめたいが快適である。
ミルクを飲み、朝食をすませてから、(ホテルの前にシャイハナとパン屋とミルク屋がある) 10時頃買い物に出掛ける。
革カバン、アフガンコートだが、なかなか良いのがない。

昼に一度もどり朝食。(カバブが12、チャイは2Af.)をすませた後、僕は外があまり暑いので昼寝をすることにした。

午後は皮屋をもう一度見て、あまり良いのがないので、現地シャツを2枚180Af.で買ったのだ。
夕方はシギスですごす。
7月9日(日)


アフガニスタンの首都カブールは高原の非常に乾燥した街です。
カブール空港に降り立ったその瞬間、鼻の粘膜が乾いて呼吸が苦しいほどで、しばらくして鼻血が出ました。
ただ、その乾燥も慣れると快適で、外は気温が40度もあって暑いのですが、いったん木陰に入ると快適なのです。
その乾燥した土地のお陰で、ハルブサ(スイカ大のメロン)が非常に安くて美味しかったです。1つ確か2~3Af.だったと思います。毎日食べてました。
ここで通貨と物価の事を書いておくと、Af.でアフガニーと読みます。前日の日記にブラックマーケットで1ドルを84Af.で交換と書いてあるので、今の物価で1Af.=¥1.5くらいでしょうか。
ですからカバブ、つまり羊の肉の串刺しが12と書いてますので、18円になります。物価は驚くほど安いのです。







カブール市内 ホテルの部屋から、朝の風景
外人相手のパン屋が見え、手前のオヤジは朝のチャイをしてます。
その前は何か物売りの準備です。

あ~ぁ.まいった。
10日の夕方にモタメディ夫人の家でDinner Partyしていたら急にからだがColdになったのだ。
10、11、12と丸三日寝ていたのだ。寝びえ、生水だけは気を付けたまえヨ!
本当にまいった。まいった。

今日は朝から起きて(まだ多少熱っぽいのだヨ)Breakfastをして、今こうしているところ。

夕べ、Embassy of Japanの岡田氏の所でPartyを開いて、また花火をなのだ。夕食が最高でありました。
7月13日(木)


カブールに着いた日の夕方は在アフガンの日本人宅に泊まり、翌日の7/8にホテルを決めました。
ホテルと言っても僕等が泊まるのは外人相手の安い宿屋で、狭い部屋にスノコのベッドがあるだけで、確か1泊50Af.くらいだったと思います。ですから1泊75円くらいですか? とにかく物価は安いのです。(いまでも変わらないと思います)

そして、写真にあるようにホテルの目の前には、外人相手のパン屋があり、その隣りに現地の人たちが使うチャイハナがありました。
チャイハナはチャイ(お茶)を飲み、カバブ(シシカバブ=羊肉の串刺し)など軽い食事が出来ます。

そこに初めて入った僕は驚きました。
テーブルに出てきた水は白濁し、出されたカバブには飛んでいたハエが何匹もとまるのです! そしてそのハエは顔や口にもとまります。
ハエを追い払いながら食事をするのです!









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