No.4902(So-net 2614+Diary 2288)
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コロナ禍でどこにも行けず、写真を撮りに行くことも出来ないので
IDEA's Afghan Tour を So-net にそのまま移してみました。
グレーの囲み記事は1972年当時書いた日記を書き写したもので
水色は2003年9月から10月まで Web Diary で書いたものです。
画質は悪いですが、写真はどれも拡大して見ることが出来ます。
キャンプから戻り僕ら5人はばらばらになり、僕は一人旅を続け
カブールからパキスタン、インドを経てカトマンズに着きました。
1972年7月6日(木)に出発した旅も10月13日(木)で
ついに終わります。長いようで短かった旅の最終回です。
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28日の夕方3時頃Raxaulに着き、
国境はすぐに終わり、5時にはBinganjiに入った。
カトマンズにはゆっくり行きたかったので、ここに一泊する事になり、今日の朝8時にBinganjiを出てきた。
カトマンズ着5時過ぎ。そのままホテルをさがすため街を歩き、ここINN EDENに2.5NR(ネパールルピー)
先ず一泊する事にした。
4人部屋で、他の3人からもらったハッシが決まりだして書けなくなってきた。
Europeanの3人いるのだ。
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1972年9月29日(金)KATHMANDU
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インドのラクソールまで列車で、国境を越えてからはバスの移動です。
国境越えの写真がなくて残念ですが、風景は日本の段々畑そのものでした。空気もいままでのじめっと湿気を帯びた空気から、日本に近い湿度になり、通りすがりの人もインドヨーロッパ系からモンゴル系の顔に代わります。
本当にほっとしたのを覚えています。
写真は結局ずっと滞在したホテルからで、あまりカトマンズらしくないのですが、辛うじて遠くにヒマラヤ山脈が見渡せます。
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今日やっと10月になった。東京では都民の日だろう。
昨日は一日ハッシぎめだった。午前中、自転車を借りて先ず日本大使館をさがした。
やっと見つけたら土、日は休み。
次にTHAI AIRで早めに帰ろうと思ったが、予約が取れず12日に決定した。
いま考えたのだが、日本大使館の付近が落ちついていて気持ちよいのである。
もしHOTELがあれば途中で移りたいと思う。
昨日、マルクをネパールルピーに替えた。10M→40NR
これで1日12NR、EXTRAに12日間で70NRという生活費になった。
最後の12日間だ。
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10月1日(日)
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このノートがいっぱいになり、ペンとノートを買ったので、そちらの方に書く。
全部このノートでなく残念だけど。
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10月3日(火)KATHMANDU
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もう10月だな。 今日このノートとペンを買ったのだ。100円もしない。
KATHMANDUの生活をなんとかこういう形で残しておきたかった。
いま多少、風邪をひいている。コルゲン・コーワもKABULで終わったし、今はハッシをひかえて、
食べ物をちゃんと取って休んでいるだけなのだ。
午後、HOTELをたずねてみたけど高いや。いなかに住む夢はやぶれた。
そして体が悪化しそうなので、HOTELに帰ってただ一生懸命に寝た。
8:00PM頃、出て行った3人のかわりに、何人か分からないが一人入ってきた。
ここは、KATHMANDUのINN EDENというHOTEL。
2階がハシシ・ショップなのだ。僕の部屋は3階で、共同部屋。
光が入ってこない暗い部屋なのだ。
今日の朝、風邪の汗がひどかったので、思い切って洗たくをしたのだ。
いま洗たく物が乾くのを待っている。
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10月3日(火)KATHMANDU
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写真はこれが最後です。
もっと外にもありましたが、これが最後です。
カトマンズでは、ホテルにずっといました。
2階がハシシショップで、ずっと飛んでたと思います。
この日記は帰国後も書き続けていますが、切りの良いところまで載せました。
長い間お付き合い頂き、感謝しています。
ありがとうございました。
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朝食後、自転車を借りてextension visaをもらいに行く。
次に大使館に行って、本などを読みたいのだ。
午後は身体も調子よい様なので、買い物なぞ(お金がないから見るだけ)行くのだ。
最後の20マルクをNRpにした。
というのも、ひらくに頼まれた子供用のチベッタンシューズがあったので
15Nrで買ったのだ。
結論としてここでお金を出し惜しみしてるより、良い物を思い切って買った方が後で
後悔しないと思うからだ。
しかし節約の考えだけは変わらず、残ったNrはAirPortでChangeするつもりだ。
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10月4日(水)KATHMANDU
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10月5日だ。
それにしてもやはり、早くTokyoに帰りたいのだ。どんな理由があるという訳じゃないけれど。
1つのピリオドとして節を見つけたいのだ。
この時間の中に生きている自分というものがいかに、Tokyoで生かせるかという問題なのだが、
感覚が先行するために、どうしても行動の最先端が鈍ってくる傾向にあるのだ。―
『意識するとは<時間>の中にいることではない』
T・S・エリオット 『四つの四重奏』バートン・ノートン扁 第2部
『イエスの教理は、本質的に紀律と強さを要求するものであったが、
パウロは、それを逃避と慰めの宗教へと転化せしめたのである。』
『宗教と反抗人』 コリン・ウイルソン
『かくして生命は諸本質の子息であり、意志は…諸本質の祖父である。
なんとなれば。如何なる本質といえども、意志なくして生じえぬがゆえに。』
ヤコブ・ベーメ 『六つの見神論的要点』
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10月5日(日)KATHMANDU
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7日の朝、雨がふっている。きのうの夜からだ―
今何時だか分からないが早くみたい本を読んでから、また休むことにする。
もう2時近いだろう あいかわらず降っている
パンを食べて、本を読んで、2、3の考えごとをして
もう2時頃だろう まだ外は暗い。
雨のふる 雨のふる
うねる青色の地に
いつか一人 そして 又来る時
思い出の中に生き死んでいく
その時間、生きづく波の中に
そして又くり返すつながりと
何かを求めて生きさまよお
この大地に何を求めん
もしこの脚の動きを止め
ただ太陽の下に居ようものなら
地獄の苦しみに他ならぬ
もし神を愛すなら もし神を愛すなら
大地をはなれ永遠の地へと
そして苦しみと愛の地へと
旅立つだろう
―我、身体に捧ぐ―
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10月7日(土)KATHMANDU
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きのうの夜が体の全く悪い時だった。
僕は神さまと闘った。そして勝った。今朝はなんとか持ち直した。
SnowMan(外人用のレストラン)に歩いて来れるようになったのだ。
今日は一日寝ているだろう。
今日は9日、正月ではないが、あと三晩だ。
神さまが私にシタールを買わせている。
内的要求と、一つある体とが
500Nrもしたシタール。
400+時計になったけれど、日本の1万円はなくなったのだ。
バンコックも一息もつかないで帰らなくてはならない。
そして1万円になるシャツもない。
つまりこれが、内的要求するものと、相対するものの正体なのだ。
神さまに感謝しなくてはならないのだ。
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10月9日(月)KATHMANDU
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早朝である。体は良くなった。
後は食べ物をとって、体力をつけていけば…そして、あす、あさってである。
帰る時の着る物を考えている。決定していたのだが、今度の病気で洗濯の大変だし…
いい所を見つけた。僕のHOTELの屋上。
今日はここ数日と違って全くいい天気、
それにあと2日だと思って洗たくをしたのだ。
そして、この屋上を発見したというわけ…どうもこの万年筆。インクボタボタ
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10月10日(火)KATHMANDU
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KATHMANDUの最後の日の明日は荷作りなので、する事は今日中なのだ。
何の喜びもなく、何の感動もなく、そして何もなかった様に去ってゆきたい。
突然多くの事が行った様で、全く何も行ってない。1つの印象は、ここの空だけ。
今感じた事は、以前家を出た時と似た印象を持っている事。
Tokyoに戻ったら一つの変化を起こさねばならない。もうTokyoは寒いのだろうか?
『「アウトサイダー」は時節が到来したならば
自分の象牙の塔から出てゆかねばならない。』 C.Wilson
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10月11日(水)KATHMANDU
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今日、出る。不思議なもので帰りたくないという気持ちが出てくるのだ。
午前中パッキング、午後の1~2時間はフリーにしたい。時間は十分にある。
Tokyoの皆さん、僕は一人で帰ります。何のおみやげも、何の話も本当に何もない。
そう、1、2ヶ月して僕がホッとしたら、ボソボソって話すでしょう。
例えば、”カトマンズの空は山に囲まれているのだヨ”って。ごく自然に、ごく自然に!
In AirPlane
すでにインドであろうか?
山は終わり、集落が点在する平原にきている。 I'mhungry now! 食事だー
Bangkok 12時ホテル着。
一つ変なのは日本に向かっているのは分かるのだが、今まで何十年と生活してきた場に帰る気がしない。
日本という1つの国に行くという……
今、久しぶりに鏡に向かっている。自分の顔を忘れていた。
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10月12日(水)KATHMANDU → Bangkok
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外の世界は全く別世界である。
台北、大阪間の上空であるが、今や夕暮れとなり、雲海の上を飛ぶこの窓からは、
夜と昼との別れ目を目のあたりに見る事が出来るのである。
遠い雲の最後の世界にまだ心残りの太陽の光が、
まるで地平線に落ち沈みそれでも光を放っている太陽を表しているかの様だ。
もうそろそろ大阪であろう。東京は間近い。今は複雑な心境である。
全く人に会いたくない気持ち。
そしてこれから帰って自分の気持ち(今まで感じてきた、せねばならない事)を
行動に表そうとする意気込み。むー
家に帰ってきた。何をどう表現したらいいのか…
今は夜も遅く、疲れからか頭ががーんとしている。
今までの一人の生活が急に多くの事が入ってきて混乱している。
タケシが肝炎で9月中頃に帰国していた様子。あとは日本に変わりはない。
いまだ眠りたくはない。(眠れない)
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10月13日(木)Bangkok → Tokyo
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二日間の休養だった。
体は徐々に回復している。13日に体重を測ったら58キロで、
今日は60キロになった。
ここ数年来、60キロを割ったのはこれが初めてであろう。
頭の動きとしては、生活に流されまいとする意識が強く働くが、いちど知った意識というものは、
そう容易く忘れるものではない。
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10月15日(日)Tokyo
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今回の旅行を終えて、このレポートを書く際にあたって、先ずはじめに書かなくてはならない事は、“全てに対する位置”である。今、自分が書こうとしているのは、旅行を終えてからの感想記でもなければ、いわゆる旅行記でもない。それは、このレポートを書くということが、1つの因果関係から来るという単純なる理由によるのであるが、つまり自分が今、現実社会に立脚している事実が、今自分自身を位置づけているということを認識しているが為に、いかにその事実を現そうかと努力しているが故のものなのである。
旅行にもそれぞれのスタイルがあるのと同様に、人にはそれぞれの生き方がある。それは彼が感じようが感じまいが、その人間はその生き方をもってして、生きているのである。たとえば、人が何かを決定する時に、その人はいままでの自分の経験から学んだもの又、それから生じた社会的要因の分析から、1つの決定を下すのであるが、その元となる経験及び知識が、統合され、集約されたもの、又はそれらが雑多なままで一つの“かたち”を成した時に、それらはその個人の人生観となる世界観として生きて来るのである。そして、その日々の生活はそういった人生観等の内的世界から、言語等の手段を用いて、外的世界の現象に訴えかける事によって成り立っており、つまり現実の生活とは外的世界の現象の積み重ねにすぎないのである。そしてそれの現象面を人々がいかに対処するかがその人を“位置づける”唯一のものなのである。“全てに対する位置”こそが自分の書かんとする始めであり、全てであるが、しかしこのことが全くの“誤魔化しでしかない”(この事は重大な事だが)こともふまえ、それは逆に“全てに対する位置”が現象の世界をも規定(あるいは決定)するものであり、人間はその世界を逃避することが出来ない(内的世界と外的世界、二者が互いに存在して初めてその人間は生きているのである。)が為に、それを度外視して、その世界に限定して生きなければならないという宿命を持っているからである。
そこで今回の旅行の“印象”を書いてみたいと思うが、今回の旅行は始め5人で、アフガニスタンのヒンズークシ山系のなかにある一部落に2週間ほど居りその後、5人ばらばらに各々の旅行目的を遂げるという形式であった。各々の旅行目的とは、それぞれの内的世界でのものであると思うが、僕の場合は単に「動きたい」という強い欲望であった。それは「動き」は容易に内的世界と、外的世界を結合させるということから、一種の逃避の意味も含まれていた。(人はそう年中“動いている”<一つの言い方として“熱中している”>ものではなく、その状態は正に内的世界と外的世界が対立しているのである。又、旅行とはそういった意味を持つ場合が多いのだが。)そういうことから、特に“僕自身”の外国旅行は他人にとって又、“今”において何の意味合いも持たず、そのことはこの旅行の第三者に語るということに関しても“どうでもよい事”なのである。そしてそれでも語るとすれば、残された唯一のもの“印象”しかないのである。
カブール空港は、茶色の乾燥した山々に囲まれて静かにあった。全ての色がある一点で定着し、それ以上みだれる事のない秩序正しさを見せている。太陽は青い空間にぽつんと大きな穴を開けた様に白く輝き、周りのかたい空気にカンカンと音をたてて差し込み、私達は長い影をつくっている。空気は太陽と混ざり合い、レントゲン線が体を透き通る様に一呼吸一呼吸臓物を洗ってゆく。この針のような太陽とそれに耐えている空気、そして大地はその厳しさのなかに我が身を横たえ我々に対面する。その“景色”は依然に何らかの方法で知っていたものである。しかしそこにあるのは、コンクリートの上に建つ1つの人間であり、それを包容する自然なのだ。厳しく、美しく。
夜は星ぞら。昼の真っ青な、雲ひとつない青空と、この今の落ちんばかりの星々と。ほんとうに暗く、そしてまっ黒な山陰が周りに座っている。その中にただ明るい所がある。裸電球が明るく、その下でカバブ屋(ヒツジの肉串刺し)のおやじさんが日本のかば焼き作りの様に火をおこし、ハルブサ(メロン)屋(くだもの屋だが、ほとんどメロンしか置いてない)の兄さんが最後の夜だと言っては客を呼んでいる。アフガニスタンの都会なのだ。電球は暗くはない。彼らの声が明るくしてしまう。彼らは夜遅くまで起きていて、ラジオを聞き茶を飲みながら仕事の話、家庭の話……茶飲み話は尽きない。そしてベッドを外に出し、星ぞらの下で夢に落ちていく。
朝は早い。ヒツジを連れた遊牧民が都の朝を通っていく。太陽が空を白けさせる頃には道に寝ている人々は起きはじめ、かまどに火を入れる。兵隊たちが列をなし朝の行列。くだもの屋、肉屋が、パン屋が街のはじまりを始める。そしてこれほどの太陽があるかと思わせる程、ギラギラと昇りはじめる。
オールド・バザールは喧噪としている。何故これ程に、この太陽の下でこれ程の活力があるのだろう? 彼らは生きている! 生きている事を生きている。この熱気は最低な文化人には全く理解出来ないもの。空気はほこりで白くにごり、道はつば、たん、動物のふんでいっぱい。そこに人々は店を開き、そこに人々は集まってくる。夕暮れともなると人出は最高になり、道々に人はあふれさながら祭りの様だ。車は、ボロの車はクラクションを鳴らしながら通りを通っていく。ヒツジの群れも人も一緒に、というよりもヒツジも人間もない、この熱気、この太陽の下のエネルギーに動かされていくのだ。そうして中近東の都会は一日を太陽と伴に終わらしていく。
アフガニスタンの山、ヒンズークシの山、それは、空気と水と土から出来上がっており、そしてそれらは1つの色のリズムによって保たれている。全く茶色に支配されている世界、その中にゴウゴウと音をたてて流れるパンジシールの渓流。茶色の世界は、神々(アフガニスタンには“神々”という考え方はない。彼らの信じるのは唯一“アラー”だけだ。)の住む青色の、青しかない世界へと続く。水は地上に多少の緑を作る以外には、永遠の時間の中に流れ去っていく。そこでは、時間は意味をなさない。時間の外には自然が完全なる調和を示し、空気と水と土とが、動くもの、動物や人間さえも含みながら光のリズムの中にと生きていく。そこには“死”はない。“死”は“生”への単なる“きっかけ”に過ぎない。永遠に続く時間が唯一絶対なる神になり、自然は茶色の山々も、深々と水をたたえた湖も、そこに住む貧しい魚たちも、そして人間たちも、1つのリズムのもとに息づいている。彼らは“天”に“生”を与えられたことを感謝し、そして子供らにそれを伝える。子供は無心だ。自然に!自然に!
車は西に太陽を求め砂漠の上をモウモウと土ぼこりをあげてスピードを出していく。太陽はすでにオレンジ色に変わり、地上に落ちる用意をしている。トラックの荷台は堅く身体は振動と土ぼこりのために、この旅行が早く終わらないものかと思っている。二日間のトラックは、あのカリフォルニアの5、6センチも分厚く積もった土ぼこりを思い出させ、ハイウェイでの旅行に決心させなかった自分を後悔させている。今、太陽のオレンジの輪はその2倍にも、3倍にも見え、下にしずむ背のゆるやかな灰色の山々を従え停止した。その時、ブレーキを強め、いっしょに運んでいた土ぼこりと伴に止まった。人々は無言のうちに、車から降りそして太陽に面して座した。あたりは、空気が太陽のオレンジに負けて白々し、空はその広さをあますことなく広げ、その終わりに山々がその色を失って、背を低くして空の終わりを示している。3、4の長い影はその中心に占めて一つの世界を作り出している。以前見たモスクでの多くの信者のそれよりも力強く、厳粛さがあたりを制した。後悔の念はもう失せていた。太陽はすばらしく、砂漠の上の儀式は自分自身の世界と、もう一つの世界を合流せしめ、文明から逃げてきた自分に生きる力を与えてくれた。そこには何ものもない、あるのはただ自然だけだ。太陽はすばらしい。太陽は依然砂漠の上に強い光を投げかけていた。
汽車は重くけだるい午後の光の中をデリーに向けて走っていく。遠くの森はその上に葉をみせ延々と続く。空気の重さとその作り出す静けさの為に、頭は追憶の中に走る。いつもの会話、空間、音のリズム、そういった具体化されたものがいくつもいくつもよぎっていく。遠くに見える変わる事のない森、たまに見える水辺に遊ぶ牛、そして隣りに座るインド人の英語、それらが現実と今とを結び付ける唯一のもの。汽車は走る。日は既に沈み、窓には自分の影がうつる。汽車の電球は暗く、湿気が首筋を湿らし不快感をつのらせる。しかし自分の体に押し寄せてくるのは、その不快感とは逆に一つの感動である。自分の脈は静かに一定のリズムを刻み、目は自分の影を見つめる。この“時”とは反対に影の外では、森は黒く横たわり近くにある橋や小さな駅や、黒く広がる水田が瞬時に流れ去って行く。この時自分は今までの、そしてこれからの自分の存在を知ったのだ。この汽車の、そして回りの“景色”はあまりに目新しく、すばらしく、そして瞬く間に過ぎ去って行く。遠くにあるものは、あくまで落ち着き、近くはあっという間に。今、自分が体験しているものは、全てが“変化”であり、自分自身といえば“異邦人”なのだ。脈は一定のリズムを静かに強く刻み、一つの感動を伝えている。“生きている”証を伝えるがごとくに。そして汽車は闇のなかを一路デリーに向けて静かに力強く走っていく。
人間には与えられた一定の時間しかない。その人がいかに考え、いかに行為しようとその人の一生はその時間の中で終わってしまうのである。ある故人がいかに名声や財を成したとて、それは所詮過去のものであり、ただ意味を持つとすれば、その人の名声なり財を成したという行為そのものの内にあるのである。では、行為の内にあるものとは何か? それは、その人がこの現世の現象の世界に、いかに対処しいかに闘ったかという、その人の内に有するエネルギーなのである。人間はそのエネルギーの有してる故に“生き”、“生きなければならない”のである。人が内に有してるエネルギーを感じた時、外にある全ての事柄は拒絶するなかにその存在を見いだすのではなく、その“大いなる力”によって闘わなくてはならない事に気づくだろう。
そういった意味でも、自分はいま傍らにいる友に、その人自身の旅行(生活)を勧める。“大いなる力”の発見の為にも。
汽車の“景色”はだまっているだけでも過ぎ去っていくのである。
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1972年12月11日(月)「 旅行を終えて 」
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このアフガン日記を書こうと思ったのは、たまたま写真の整理をして、したいと思っていたフィルムのデジタル化が出来上がった時でした。
ところが、始めは単に写真をお見せするつもりが、こんなページを重ねる事になってしまいました。
しかし、これは結果的に自分の再発見の旅になりました。
また読んでくださる方が声をかけて下さり、励みになりました。
最後に長文ですが、旅行後に大学に提出したレポートを載せて終わりにします。このレポートで長期欠席にもかかわらず単位を下さった平野教授始め、大学の先生方、そして一緒に旅行したミキ、ひらく、タケシそしてEIJI。皆さんに本当に感謝するばかりです。
ありがとうございました。 2003年10月30日
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