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カメラを向けるな!= 日本三大ドヤ街 横浜寿町のいま = [旅行・探訪]

 
2019-10-25 No.5027(So-net 2739+2288) 2018年Blog WebDiary Since 2002

まだこんな街があるとは知りませんでした。



和来 伊勢佐木町店 = 日曜日朝飲み・地元に密着したチェーン店 =

和来を出て、

僕は横浜のみなとみらいのモンベルに行こうと思ってたのです。



ここは大岡川の支流で、首都高の下の中村川です。
このまま下流は山下公園あたりで港に流れてます。

水の色が緑色なのは、大岡川も同じで流れが悪いからでしょうか?
そんな事を思ってました。



美奈登荘

このアパートもそうなのかな?



古そうだけど、普通です。



東京にあるアパートとか何か違うのです。



するとこんな一角に出てきました。



ここはJR石川町駅の西側(山側)です。

いつも石川町駅で下りて中華街に行ってましたが
その山側にこんな地区があるとは知りませんでした。



Eishiroさんも初めてこの界わいに来たと言ってます。



東京にある古い飲み屋街、たとえば新宿ならゴールデン街とか
渋谷ならのんべえ横町とか、大森なら地獄谷とか



そういう東京の古い飲み屋街とは違うのです。



Eishiroさんも緊張ぎみ

むかし、お父さんが車を運転してて
この地区だけは避けて通っていた。

そういう話をするのです。



一瞬シャッターを切りましたが

普通の飲み屋のようにも思えます。



いまでも営業してるのでしょうね



夜に来てみたいけど、

やっぱり怖い



アイルトン・セナ?



この居酒屋が密集してる地区は寿町の外れです。

寿町の西にカギ状にある一角です。



そして、ここからです。

飲み屋街から東に向かうとアパートが何十軒と現れるのです。



Eishiroさんから、やばい街だと聞いてたので

シャッター切るのも緊張します。



建物は鉄筋でも、入り口はぼろぼろです。



左の新しい建物は寿町総合労働福祉会館です。

その前に男たちがたむろしてます。



そもそも寿町とは


寿地区は首都高、根岸線を挟んで関内の反対側に位置し日雇労働者が宿泊するための「ドヤ」という簡易宿泊所が100軒以上立ち並び「ドヤ街」と呼ばれる地区である(ドヤ街は、日雇労働者の就労場所と合わせて寄せ場とも呼ばれる)。寿地区は、東京都の山谷、大阪市のあいりん地区(釜ヶ崎)と並ぶ三大寄せ場の1つとされる。
寿地区周辺は、第二次世界大戦後、1955年までアメリカ軍によって接収されていた。接収終了後、職業安定所の寿町への移転や簡易宿泊所群の建設がはじまった。これにともない、日ノ出町周辺や黄金町付近の大岡川沿岸バラック群(大岡川スラム)、さらに水上ホテルといった宿泊施設から港湾労働に携わる日雇労働者が、大勢移入。まもなくドヤ街が形成された。
第二次世界大戦で大空襲によって焼け野原になった横浜中心部のうち、寿町界隈は接収解除後の10年間治安が乱れ、放火や乱闘騒ぎ、麻薬の売買、賭博、売春、売血事件が頻発した。中田志郎・著『はだかのデラシネ』(1983年)によると、あまりの無法状態に一部の人々は、開拓期のアメリカになぞらえて「西部の街」と呼んだという。 日本返還後、1956年頃より在日韓国人が多く進出するようになり、この一帯の地主となった。(中田著・前掲書205頁、267頁)さらに1965年ころからは暴力団が台頭してきてこの街の支配を在日韓国人と二分することとなる。
寿町 (横浜市) - Wikipedia



ドヤ街とは?
主に日雇労働者向けの簡易宿泊所をドヤと呼び、そのような簡易宿泊所が立ち並ぶ街がドヤ街といわれるようになった。ドヤは宿の逆さ言葉で、とても普通の宿と呼べるようなところではないという意味を含ませて作られた呼び名

寿町ドヤ街形成の経緯
1950年代、農業の機械化が進み農村では人手が余るようになり、特に農家の次男、三男は都市に移り住み始めた。またこの頃は石炭から石油へとエネルギー転換の時期。職を失った炭鉱労働者なども仕事を求めて都市に流入してきた。
当時、朝鮮戦争による軍需輸送の基地となった横浜港は、荷役労働を中心に港湾労働者の需要が多く、日本中から大勢の労働者が横浜に集まっていた
当時は野毛に日雇い労働を紹介する職業安定所があって、野毛周辺に簡易宿泊所があり、大岡川には船を改造した水上ホテルのようなものもあった。
一方、寿町周辺は1945(昭和20)年から1955(昭和30)年まで米軍に接収されていた。接収解除後、1957(昭和32)年に職業安定所の寿町移転と共に、寄せ場も移動し、簡易宿泊所が多く建設され、寿町はドヤ街を形成していくこととなる。
横浜港での荷役を中心とした労働力需要は大きく、100軒以上の簡易宿泊所が建設され、大変な賑わいを呈するようになる。
最盛期の夜には立ち飲み酒場のカウンターを二重三重に客が取り囲んでいたという。ドヤ街は、日本の高度成長期を安価な労働力で支えた場所でもあったのだ。
寿町のドヤ街はなぜ形成されたのか? - [はまれぽ.com]

戦後、横浜に港湾労働者が多く集まり
港湾労働が合理化で仕事が減ると

次は建設業の日雇い労働者の斡旋場になり
それもバブル崩壊後には、日雇い仕事も減り

労働者は高齢化し、生活保護者の街に変貌していった。
こういう事らしいのです。



この写真を撮るのはさすがに怖かったです。
人が写ってる写真はこれだけです。

鉄筋の大きな宿泊所のベランダから通りをのぞく男たち
これをシャッターに納めようと思いましたが、さすがにやめました。

PA201641b.jpg

そしていま、寿町は日雇いの仕事もなく
生活保護を受けて生活する高齢者の街になったのです。



ところが、写真の神奈川県立かながわ労働プラザや
労働福祉会館は新しく立派です。

何か物分かったことを言うつもりはありませんが
やはり違和感があります。

うちのような零細な会社でも四苦八苦してます。それでも
税金をはらい、その幾ばくかはこの人たちと管理してる役人を支えてるのです。

写真を撮ってる時は思いませんでしたが、あらためて見ると
この街はいまの日本の象徴なのだと、考えさせられました。







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