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福島市探訪 その2= 福島藩と戊辰戦争 福島市はなぜ県庁所在地になったか?= [旅行・探訪]

 
2019-08-27 No.4980(So-net 2692+2288) 2018年Blog WebDiary Since 2002



福島市探訪 その1= 会津藩と福島藩 =

会津藩の生い立ちを昨日は少し書きました。
徳川家の直系が会津松平家の藩祖だったため

幕末において京都守護職を任じられ、そのために
戊辰戦争で朝敵の汚名を着せられたまま敗戦を迎え

その後150年会津の人々は屈辱的な歴史をかかえ
そればかりでなく明治以後の不利益をも被るのです。

しかし、それもこれも会津藩が教育、社会制度など
三百諸藩でも一二を争う藩だったからこそなのです。


福祉
会津藩は日本初となる老齢年金制度を創設した藩であった。開始されたのは寛文3年(1663年)で保科正之の時代であり、正之は藩内の90歳以上の老人に対して金銭ではなく米で1日5合、年間では約1石8斗、米俵で4俵半(約270キログラム)を支給した。当時の会津藩で90歳以上の高齢者は町人で男子は4人、女子は7人、村方では140人と合計すると155人以上おり決して少ない負担ではない。
危機管理
保科正之は凶作による飢饉に備えて明暦元年(1655年)に社倉制度を開始した。これは藩で米を7000俵余り買い入れて各代官に預け、翌年から通常よりかなり低率の2割の利子で困った百姓に貸し付け、その利子で年々蓄えるべき米を増やして凶作の備えとしたのである。
会津藩 - Wikipedia

保科正之(会津松平家初代=二代将軍秀忠の子)のような
名君が三百諸藩のなかでも雄藩にさせていくのですが

幕末では三百諸侯のほとんど寝たような、何もしない藩でした。
その一例が金沢藩です。

金沢藩は加賀百万石というほど三百諸侯中最大の藩が、幕末期
これだけの藩が動けば徳川も戦慄したはずなのに動かなかった。

それは、やはり生い立ちなのです。

加賀藩の藩祖前田利家は織田信長の家臣で、信長の死後豊臣家の
譜代大名になり、二代目利長は家康につき前田家を守るのですが

どの豊臣恩顧の大名も立場が危なく、そのため利長は無能を装い
金沢を美術工芸を盛んにするなど、軍備はしませんと恭順を示し

その長い歴史が幕末においても、眠れる大国にしたのです。

幕末期の眠れる三百諸侯はそれぞれ理由があったのでしょうが
薩長土肥や会津には保科正之のような名君の存在があり、または

闊達な下級武士がいたからこそ、明治維新の原動力になったのです。

ところが福島藩です。

戊辰戦争では福島藩は右往左往します。福島藩は鳥羽伏見の戦い後
官軍に恭順の使者を送り、福島城下に会津討伐の本陣を起きます。

しかし長州藩士・世良修三を福島藩士が斬首してしまい、その結果
福島藩は奥羽越列藩同盟(反新政府軍)に入ることになり、ついに

福島藩も新政府軍に降伏し福島城は陥落し福島藩は消滅したのです。
と、幕末の歴史では会津藩ほど福島藩の歴史は輝かしくないのです。

幕末期、会津藩は28万石(38万石)、福島藩は20万石ですが
幕府直轄領となった福島藩は石高が明確でないのですが、とにかく

幕末期会津藩が名実ともに福島藩を圧倒していたのです。ではなぜ
会津ではなく福島藩・福島市が県庁所在地になったでしょうか。

結論から書くと


1876年設置の福島県庁が福島市に置かれた要因として

1)徳川時代から信夫郡や伊達郡の一帯が、日本有数の養蚕業の中心地となっており、福島城下の石高も会津藩に次ぐ福島県内第2位の規模を有した城下町として栄えていた。明治時代前期の殖産興業政策下で製糸業が発達して資本の集約が起きて、東北第1号の日本銀行支店が置かれるなど発展していた点。

2)若松、白河、棚倉、二本松、平、中村といった福島県内の主だった藩の城下町に対し、薩長が樹立した明治政府と敵対していており、ある程度の規模を有していた城下町で唯一戦火を逃れたのが福島であった。
福島県 中通り - Wikipedia

このほか、関ヶ原以前の「東山道」が福島を貫いてたという
地勢的な理由もその1つに違いないのですが、それよりも

戊辰戦争で朝敵となった会津には県庁所在地を置かないという
薩長の因縁が隠されていたと思うのは僕だけでしょうか?

さてここで長くなりますが、話を変えます。


 わがワイフ殿の実家が中通りにあって、自分も福島県には相当な馴染みを持つようになりました。
 そこで気がついたのは、福島県は北海道、岩手県に次いで大きい県であり、普通は浜通り、中通り、そして会津と別けて歴史・風土・人となりの違いが語られてきましたが、3.11以降はお互いに乖離が生じた様に感じております。
 大き過ぎるせいもあるのでしょうが、福島県としての一体感が薄くなり、中通りと会津は浜通りに対しての視線が厳しくなった様に感じています。
 人の感情って複雑です。
 お身体ご自愛の程を・・・
by LargeKzOh (2019-08-26 11:39)


LargeKzOhさんの昨日のコメントを紹介させていただきます。

僕は福島県の一体感のなさは歴史そのものだと思うのです。
そもそも廃藩置県以降、各県は旧藩を中心に編成していきます。

その変遷を見ると簡単には語れませんが、多くは旧藩から移行で
新県庁も旧藩庁があった城跡に設けられていきます。

ここで問題は福島県です。明治4年の第1次府県統合では

角田県、中村県、磐城平県、湯長谷県、泉県、三春県、棚倉県
白河県、二本松県、福島県、若松県

こうして数多くの藩が県になっていくのですが、この多くの藩、
県の存在がいまの福島県の一体感のなさになったと思うのです。

LargeKzOh さん、いかがでしょうか?(笑)

さて、話題を元に戻します。
福島市はなぜ県庁所在地になったか?です。



答えはこの御倉邸(おぐらてい)にあったのです。

御倉邸は日本銀行福島支店支店長の旧邸宅なのです。


信達地方(福島盆地=信達(しんたつ)平野)は江戸時代から、「信達蚕糸業地帯」として全国に名が知られていました。明治に入ってから蚕の卵(蚕種)は特に有名で、質の高い蚕種を全国に出荷しました。
また、外国からの需要が多くなったため、福島町の問屋は生糸・絹織物を買い集め横浜の貿易会社から海外に輸出していました。明治20(1887)年の東京・福島間の鉄道開通も有効に働き、やがて、福島町は東北全体の生糸の中心地となり、生糸も福島町の絹問屋を通して販売するようになりました。
生糸は当時取引額の最も多い商品で、明治32(1899)年6月に日本銀行福島出張所が東北で最初に福島に造られました
養蚕とふくしま - 福島市

この養蚕産業の発達、そして日本銀行が福島市にできた事が

県庁所在地の誘致に成功した理由と思ったわけです。

ではなぜ、福島市に日本銀行が出来たのでしょう?


養蚕をするには、金と労力がかかります。養蚕に金がかかるのは、蚕種を買うためです。それと桑畑の手入れが大変でした。江戸時代の肥料は人糞が主ですが、それでも金肥といって、魚から作る肥料を撒きました。蚕は孵化すると脱皮しながら成長しますが、その時には夜も寝ないで桑の葉を与えなければなりません。段々蚕が成長してくると、家中が足の踏み場もないくらいになり、食事は立ったままするということになります。養蚕が忙しいのは蚕に餌を与える作業があるからです。家族だけでは無理なので人を雇うのですが、そのためには手間賃を払わなければなりません。そこで借金をするのですが、そのようなこともあって、三春町や船引町には、銀行の先駆けとなる金融機関としての金貸しが、多くいたのです。
今でも郡山の山間地をまわると、年配者から昔は養蚕で儲かってよかったという話を聞きます。それは中山間地の農村には養蚕に代わる農業がなかったのと、養蚕は稲作とちがって借金でやるからでした。それでも養蚕を続けたのは、借金を返すためというより、養蚕をやめると今までの借金を精算しなくてはならなくなり、そうすると、返しきれないほどの借金が表面に出てしまうためでした。このあたりは、今の小さな会社の経営者が廃業したいけれど、借金があるから辞めるに辞められないというのとほぼ同じです。また養蚕というのは博打に似たところがあって、今年はダメでも来年は大当たりするかもしれないという期待があります。そこで戦後もしばらく続いていたというのが日本の養蚕の歴史でした。
郡山の製糸 『福島の歴史物語」。- 楽天ブログ

日本銀行もえぐいです。

いつの時代も金貸しは百姓を食い物にしてたのでね。(笑)

P8241627.JPG

本当に長くなりました。

明日こそ御倉邸を案内します!(笑)






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