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品川鮫洲 = 土佐藩15代藩主 山内容堂の墓 = [旅行・探訪]

 
2019-05-07 No.4890(So-net 2602+2288) 2018年Blog WebDiary Since 2002



令和免許と鮫洲風景と東小路居酒屋:IDEA's Gallery

鮫洲の運転試験場を出て



仙台坂の下

第一京浜まで出てきました。



この正面のトンネルの先が仙台坂です。

昨日はこの坂の南側に仙台・伊達藩の品川下屋敷があり
仙台坂と呼ばれると書きました。

しかし、この仙台坂の向かい側は土佐藩山内家の下屋敷があり
その高台を土佐山と呼んでいるようなのです。

江戸藩邸は上屋敷、中屋敷(なかやしき)下屋敷(しもやしき)なので

この品川あたりは宿場町でもあるし、狩り場もあったでしょうし、海も近い
江戸の上屋敷から遠く、別邸または別荘として下屋敷が多くあったのですね。



ところで、いまもいつものように司馬遼太郎を読み
その中で最近は一橋慶喜(よしのぶ)を読み終わり

徳川慶喜 - Wikipedia



いまこの「酔って候」を二度目読みしています。
幕末から明治にかけての物語はやっぱり面白い!

慶喜を誤解していることもあり、四賢侯とのやりとりも、
例えば大政奉還を視点を変えて見ると、なんとも面白い!

そこで文庫の「酔って候」なのですが

土佐藩主・山内容堂  山内豊信 - Wikipedia
薩摩藩主・島津久光  島津久光 - Wikipedia
宇和島藩主・伊達宗城 伊達宗城 - Wikipedia
佐賀藩主・鍋島閑叟  鍋島直正 - Wikipedia

この4人の短編集なのです。

初めの「酔って候」は山内容堂を書いているのですが、
その他にある島津久光、鍋島閑叟は四賢侯ではありません。

四賢侯(しけんこう)と言えば 幕末の四賢侯 - Wikipedia
松平慶永、山内容堂、島津斉彬、伊達宗城この四人です。

島津斉彬が急死したため斉彬にかわり春嶽・容堂・宗城の会合に
久光を加えて「四賢侯会議」と呼びますが久光は四賢侯ではありません。

文庫「酔って候」にも久光が題材として取りあげられ
久光の馬鹿さを知る上で面白いのですが、四賢侯ではないのです。

そして島津斉彬のファンとしては斉彬(なりあきら)の事を
「酔って候」のように短編で書いて欲しかったと思うのです。

島津斉彬 - Wikipedia



さて、その山内容堂の「酔って候」を鮫洲の待ち時間で読んでいて
以下の記述に思い出したのです。

つまり安政5年(1858年)4月、井伊直弼が大老に就任して
一橋派(四賢侯が一橋慶喜を将軍に推す)を弾圧した安政の大獄で

安政の大獄 - Wikipedia

山内豊信は隠居願いを幕府に提出して、春嶽・宗城らは
幕府より謹慎の命が下ったのです。

豊信は家督を幼い養子豊範(とよのり)に継がせ、
隠居後は号を容堂としたのです。年は33才です。

「酔って候」にこうあります。

「容堂は藩邸をその幼主にゆずって幕府に届けた
 品川鮫洲の別邸に移った。」p52

そうか!

鮫洲で隠居してたんだ!と二度読みしてたので、思い出し
そして、鮫洲に容堂の墓がある 事を思い出したのです。

では、なぜ容堂は土佐ではなく鮫洲に墓があるのでしょう。


山内容堂が愛した場所
山内容堂はとても思いこみが強く一途で、沢山いた側室の中で藩全体、親族、他藩の藩主からも反対されても押し切って側室にした女性がいました。
その女性は老中・阿部正弘(あべまさひろ)の側室で鯉尾(りお)という他藩にも聞こえる絶世の美女だったそうです。
阿部正弘が亡くなって、周囲の反対を押し切って鯉尾を側室にした山内容堂ですが、ちょうど安政の大獄で隠居する時期と重なり、山内容堂は鯉尾とその鯉尾が産んだ赤子(光子)を連れて品川下屋敷に謹慎します。
当時、大井村の下総山は土佐藩下屋敷が建てられてから土佐山と呼ばれ、紅葉の名所で品川の海も良く見えたことから山内容堂のお気に入りの場所でした。
愛娘と最愛の人を連れての品川下屋敷での生活は、山内容堂の人生の中でかけがえのない時間となり、山内容堂本人の遺言として品川区東大井にある土佐山に葬られることになったのです。
山内容堂とは?酒や坂本龍馬との関係、子孫や墓についても解説

見つけました!
これで謎が解けました。

いや、この引用では山内容堂を綺麗に書いてますが、

実際は隠居してからも、時代が明治になってからも
妾を十数人も囲い、酒と女と作詩に明け暮れる晩年で

連日酒楼にて豪遊し、ついに家産が傾きかけたものの
容堂は「昔から大名が倒産した例しがない」と豪奢な晩年で

積年の飲酒が元で脳溢血に倒れ、45歳で生涯を閉じたのです。

ちなみに「酔って候」にこんな事も書いてあります。

「終日酒を飲んでいるため血が体中からおふれすぎる病をもっている。
 三日に一度は、逆上せがはなはだしく、このため歯が全部ぐらぐらし
 目がくらみ耳が鳴る。このため蘭方医をよんで、肩から一度に七、八
 合も血をぬきとっているという。いわゆる高血圧なのである。」p43

高血圧に歯槽膿漏、そして胃潰瘍
それでも酒を飲み続けたのですね。

ところで、NHKドラマ「龍馬伝」の山内容堂は



龍馬伝 第19回「攘夷(じょうい)決行」 2010-05-09放送

山内容堂は近藤正臣が演じてますが、
年が合わないです。この時まだ40才です。

僕も容堂は年寄りだと思ってましたが
高血圧の歯槽膿漏では年相応か。(失礼 笑)

もう一つ

山内容堂の読みです。「やまうち」でいいのですが
土佐藩の藩祖は山内一豊です。

山内一豊 - Wikipedia

べつに豪傑でもなく、生真面目で律儀だけの人物です。
それが、いわゆる「一豊の妻」で有名になり、

山内一豊室「内助の功」に関する逸話 - Wikipedia

ただ「小山会議」で「徳川につく」の一言だけで掛川6万石から
大抜擢され一躍土佐24万石を封じられたのです。

関ヶ原の戦い(小山評定をめぐる諸説) - Wikipedia

その山内一豊は昔は「やまのうち」と習ってたと思います。
でも、いまは「やまうち かずとよ」と読むようで、つまり

容堂も「やまうち ようどう」でいいみたいです。(笑)



話がやっと容堂の墓参りに戻りました。(笑)

写真の真後ろが第一京浜をはさんで京急の鮫洲駅です。





大井公園の坂です。



山内容堂の墓の案内が小さくあります。

僕はGoogleマップを見ながら右の階段をあがります。



左にお墓がありそう!

でも、念のため右の坂をあがります。(笑)



大きな公園です。



立派な遊具だ!



遊具のかげに墓石が見える!

あれだ!



ところが高台の公園からは墓地に入れません。



公園をいったん下ります。



京急の鮫洲駅です。

ここから容堂も見た海が見えてたのです!



容堂の墓は特別に整備されていました。



公開時間が決まってました。

そして、この案内を見て山内の読みを確認したのです。



おー!立派な墓地だ!



墓地のすぐ隣りは区立立会小学校です。

容堂のことも習うんだうな~(笑)



墓地の一番手前に「嶋津常候之墓」
第十三代藩主山内豊熈の正室候姫(こうひめ)の墓です。


13代藩主・山内豊熈の死後、その弟の山内豊惇が跡を継ぐが、藩主在職わずか12日という短さで急死し、山内家は断絶の危機に瀕した。
豊惇には実弟(後の16代藩主・山内豊範)がいたがまだ3歳であったため、分家で当時22歳の豊信が候補となった。
豊熈の妻・智鏡院(候姫)の実家に当たる薩摩藩島津家などが老中首座であった阿部正弘に働きかけ、豊惇は病気のため隠居したという形をとり、嘉永元年(1848年)12月27日、豊信が藩主に就任した。
山内容堂 - Wikipedia

説明を加えると

先々代の豊熈(とよひろ)が34才で病死して、豊熈には子供がなかったので
実弟の豊惇(とよあつ)が25才で相続し、幕府にその願いを出していたのです。

ところが幕府に願い出てる最中豊惇が亡くなり、土佐24万石が廃藩危機に陥り
豊信(容堂)が候補になったのですが、豊惇を生きていることにして裏工作をします。

まずは豊熈の未亡人(智鏡院=候姫)が、薩摩藩主島津斉彬の実妹なことから斉彬に
殿中工作を頼み、斉彬は宇和島藩主伊達宗城、筑前藩主黒田斉溥などの援助で
老中阿部正弘を説いて、やっと豊信が15代土佐藩主に就任したのです。

つまり智鏡院=候姫は容堂にとって義母ながら、彼にとって唯一頭が上がらない人で
土佐藩廃絶の危機を救い、豊信が分家ながら藩主になれたのも候姫のおかげなのです。

墓地の入口に立派な墓石があるのもなっとくです。(笑)





いよいよ山内容堂の墓です。

面白いのは墓石が斜めに向いてます。

P5050222.JPG

こちらが正面です。
面白い墓の形をしてます。

「土佐 墓」でググってもこの形の墓は出てきません。
この土の下に山内容堂が埋葬されてるのでしょうか?

合掌



すこし下がった位置に古井戸の跡でしょうか?

夏草や 兵どもが 夢の跡
とそらんじてみたくなります。



「侯爵山内豊範妻栄子之墓」

容堂が隠居して家督を豊範(16代藩主とよのり)に継がせ
その豊範の継室栄子の墓。

豊範の墓が高知にあるのに、ここに埋葬されているのは
正室が高知に埋葬されているかららしい。恐ろしや(笑)



最後に「山内家合祀之墓」



ちなみに、正室正子(三条実万の養女・烏丸光政の娘)の墓はありません。
先々代の正室候姫と養子豊範の継室栄子と、女性二人を両側に置いている。

さすが、容堂だ。

と言うか、源氏物語も清少納言も知らぬ、歌も詠めない三条正子に対して
史籍をよみ京を尊んできた容堂は死ぬまで枕を一緒にしなかったらしい。

酒と女と詩を愛し、自らを「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と称して
武芸に秀で、日の酒を一升飲み(ちなみに飲む酒は剣菱)酒で死んだ。

鯨海酔侯とは、土佐の海は鯨が泳いでる。だから鯨海。
つねにその鯨が酔っている。ゆえに酔侯。「酔って候」p76

英雄豪傑を自らになぞらえる。特に織田信長の英姿颯爽たる風貌を愛し
みずからを信長のごとくたらんと心がけ、したたか飲んだ宴席で

「わしがもし戦国の世に生まれればたれと思うか」と家臣に問い困らせる。
織田信長と言わせたいが家臣は答えない。この滑稽さ。これが容堂なのだ。

P5050222.JPG

良い墓参りをしました。

さて、剣菱でも飲むか。(笑)








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