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IDEA's Afghan Tour No.10 = パンジャオ → チャグチャラン → ヘラート = [Afghan Tour]

 
No.4899(So-net 2611+Diary 2288) 2019年Blog WebDiary Since 2002

コロナ禍でどこにも行けず、写真を撮りに行くことも出来ないので
IDEA's Afghan Tour を So-net にそのまま移してみました。



グレーの囲み記事は1972年当時書いた日記を書き写したもので
水色は2003年9月から10月まで Web Diary で書いたものです。

画質は悪いですが、写真はどれも拡大して見ることが出来ます。

キャンプから戻った僕ら5人ばらばらになり、僕はEIJIとも別れ
アフガニスタン国内を一人で旅を続けます。




72083001.JPG
5時40分起床。
この寒さは10月の軽井沢と同じくらい。今年のAFGHANはいつより寒いそうだ。
それにしてもまだ9月になってないと言うのにめっぽう寒い。

6時、事件発生。エントツの火から草木を置いてあるだけの屋根が燃えた。
すぐに消し止めたが大きな騒ぎだった。

7時、このチャイハナともバイバイしてバス(orトラック)の停まるという、川のそばのチャイハナに行く。
トラックが60Af.バス80Af.だと言っていた。

もう8月の末だ。
日本では小学生が宿題に追われていて、ヒーヒー言ってるのではないか‥‥

9時20分頃、1台のトラックが始めは「行かない」という。しかしCAGHCARANと言うと
「いくらなら行くか?」と言うではないか。
僕が100、敵が150。OK! Goto CAGHCARAN.

後で考えるとYakawlangでもそうだったが、外人Touristには甘くない。始めは行かないと言うのである。
そこは感で、行くと思ったら「いくらなら行くのか?」と先に持ちかけるのが一つの手だろう。

今までの値段を考えて見ると、
KABUL  →BAMIAN     BUS 250km  60Af.
Yakawlang→Panjaw     Truck 55km  50Af.
Panjaw  →CAGHCARAN Truck 210km 150Af.

Trauckが1km-1Af.以下と割高。これは。Trauckが私的に走ってるからだと思う。
CAGHCARAN→HERAT 350kmを150~200Af.と思っているのだが‥‥
1972年8月30日(水)Panjaw → CAGHCARAN


PanjawでEIJIと別れた僕は、チャグチャランに向けて出発します。

チャグチャランまで210キロ。
無舗装のデコボコ道を、写真のようなトラックで移動します。
写真は水をくむ子供が写っているので、トラックがオーバーヒートしたようです。

またこの時期、何度もお金の計算をしています。
地図もなくお金もない、いま考えるとずいぶん無謀な旅行です。







9時20分に出たTrauck。12時半に休憩。1時出発。
夜8時半頃、仮眠のため停車。

朝4時半出発。
朝6時、CAGHCARAN到着。

相変わらずの土ぼこりと、振動、それに寒さであった。
風景がCAGHCARANに近づくにつれ、中央高原の砂ばくといった感じで、キャラバンがラクダをひき連れ、テントを張ってるのをよく見かけた。
我らのTruckはソ連の人間らしいのを一人乗せていて多少特しゅであって、夜になるとdriverとその人間とベッドを持ち出して寝るなど、普通のトラックとは違っていた。

CAGHCARANは正に中央高原の町。今までの町とは違い広い大地の上に、広々と町を構えていた。

8:00、HERAT行きの車は割りとあるようだ。今日、1時に出るとチャイハナのおっさんが言っている。
しかし、あくまでAFGHAN。
どこまで信用出来るか分からない。相手に聞けば「あー今日あるヨ」と答えるがのがこの国だ。

8:30、僕の計算はあたった。車はソ連製のいいものであるが、さすが350km、2日掛かる道のり、400Af.と言ってきた。300と言うと言葉が分からないので、よく理解出来ないが350という事らしい。

計算その2
700Af.  CAGHCARAN→HERAT 350Af.
350Af.  食費二日間         50Af.
300Af. + 時計 800Af. + $3(240Af.)

1340Af.この金でなんとかKABULに帰れるだろうが、時計がなくなるのが痛い。
時計を売らないとして、540Af.これでKABULに帰るのもシャクだし。

多少、運が残ってるのかもしれない。もう出発。

CAGHCARAN、9時20分出発。10時、草原の最終の村にとまる。
4台十組の運送会社の車である。途中からAFGHANの先生が乗ってきた。
人のいいヤツで、350と思っていたのを、2人で乗って200+200にすれば良いと言ってきた。
非常にラッキーだ。もし本当ならば。

11時頃から山にかかり12時すぎに峠を過ぎる。大きな峠で、AFGHANの中央高原が一望出来る。
12時半休憩。

CAGHCARANからここずっと、中央高原なのである。遠くに山が低く見え、草原が広々と広がる。
途中点々とマオ・テントが見え、遊牧民が秋の盛りを働いている。夕暮れが近づくにつれ、太陽が西に傾き目の前に迫ってくる。まぶしい、厳しい山の上の太陽に向かって走る。自分が地球上の点になり、動いているのが分かるのである。
8月31日(木)CAGHCARAN → HERAT


パンジャオを朝の9時に出発し、途中8時間の仮眠をし、翌日の朝6時にチャグチャランに到着します。

そして20時間以上の移動のあと、すぐさまヘラートに向かいます。

一見過酷な旅行なのですが、いま思い出すとこの移動するだけの旅を僕はしたかったのだと思います。
肉体的に厳しいが、移動する事で自分自身が安らいでたような気がするのです。







31日はちょっと面白い事があった。
僕がいま乗ってるいるTruckの社長のような人にあったのだ。2時頃だ。
我らが休けいしているところに彼が来た。MOMTAZ TRASPORT社の社長の息子で、
4台のトラックを引き連れHERATからKANDAHARに行く途中のようだ。

31日はそのまま走り、5時頃停車。そのまま夜を過ごす村となる。
その夕方、その青年社長と色々話した。

今日は5時ころ目を覚まし、7時頃出発。
10時頃、その青年のジープがまた来て、僕はそのままジープに乗ることになった。

同い年なのだが、2,3才上に見える。それはアフガン人がみなたくわえてるヒゲのせいかもしれない。
彼は自分のトラックを非常に自慢しており「250台も持っているんだ」と誇っていた。
彼はこんなに僕に近づいたのは、僕が日本人だからだろう。非常に親しくなり、来年は日本に来て日本のお嫁さんをもらうんだと張り切っていた。しかし彼は完全なモスリムなのだ。彼らは僕がアラーをたたえる言葉を唱えると、全く喜ぶのである。そう。僕はアラーを信じていると言ってもよい。しかし、祈る気にはなれない。彼らの生活にアラーは全体だ。彼は日本の女性を求めていたが、その点で僕は悲観的だ。

もう1つ。お金のことである。結局300Af.を私はpayした。別に不思議な事ではない。彼が「なぜお金をpayしたのだ?あなたは私のguestだ」と言うのだ。しかしdriverは彼の言葉にもかかわらず、知らん顔で受けとるし、彼はdriverに何も言わない。―まったく疲れた―彼にもどうする事も出来ない。そう思って彼らと別れた。
9月1日(金)CAGHCARAN → HERAT


この旅行はEIJIと別れてから一人旅なのですが、しかしいろいろな人との出会いがありました。
まずはこのトラック会社の社長(または、その息子)です。

一緒のジープに乗せてもらい丸二日、いろいろな話をしました。
アフガニスタンの言葉はペルシャ語で、僕は基本的な単語を日本で覚えて出発し、カブールに着いてから手真似を交えて単語を増やしていきました。しかしやはり詳しい会話は無理です。

そこで、この社長や現地の学校の先生とは英語で会話してましたが、片言の英語でやっと会話になっていたと思います。






色々のことがあったが、もうすぐヘラートだ。
今はすでに出発しようとしているバスの中、シンデンという所だ。

シンデンはカンダハル-ヘラートのごくヘラート至りで、中央道路がぶつかった所だ。
初めてハイウェイが中央高原から見えた時は嬉しかったぞ!

ヘラートはこのバスで2時間ほどだ。

いま面白い状況なのだ。彼がPushしてくるのだ。彼とはヒツジでバスの中にびっしり5頭ばかり。
人間とヒツジと同じ状況におかれている。僕はこういう時間が好きだ。

今日は9月2日。Septemberだ。
何となしに心がウキウキしてきた。ヒツジとこれからFightだ。
いまチャグチャランから一緒に来たAFGHANの先生にRash Hourの説明をしたのだ。
ちきしょー ヒツジー!
9月2日(土)SIN-DAND → HERAT


1週間近くかかった中央道の旅もそろそろヘラートに着きます。
ところが後で分かるのですが、チャグチャランから真っ直ぐヘラートに着くのかと思っていたら、
ヘラートの南100キロほどのシンデンという町に着いてしまったのです。

そこでやむなく、シンデンからバスに乗ってヘラートに向かいます。

ところが驚いた事に、人が乗るバスにヒツジが一緒に乗ってくるではありませんか!

そして悪いことに僕はヒツジの隣りにギュウギュウと押し込まれてしまい、その上しばらくすると足に冷たいものを感じます。何と、バスの中でヒツジにオシッコをかけられてしまうのです!

まったく、なんて国かと思いました。







8:35
今日、HERATを出る。

昨日着いたSIN-DANDはHERATからかなり離れている町だった。CAGHCARANからHERATに直に来るcourseではなく、遠回りの道であった。

SIN-DANDから来るバスは下町のバザールのあたりで停まる。BANKや外人向けのHOTELを求めたい場合は、下町、モスク、外人向けというように歩けばよい。
HERATの町はちいさな路地が無数に走っていた。非常に面白い町だ。

HERATに着いて、すぐ出ることになったのは、一人の日本人と一緒になったからだ。
ヤツは北大の人で、去年10月日本を出てヨーロッパを回ってAFGHANに来た。
金は彼から借りる。

8:45
バスは9時に出る。
9月3日(日)HERAT


この頃になると旅行するのが精一杯なのか、写真はあまり撮っていません。
珍しくヘラートの地図を書いているので、それを載せます。

日記にある北大のヤツというのは、このヘラートで知り合った奥野君と言って、
この後インドまで一緒に旅をすることになります。

そして帰国した翌年の夏、僕はバイクで北海道まで行くのですが、
その時に札幌で再会し、彼の自宅に泊めて頂きました。

実は、それ以来会っていません。
タケシともこの日記で25年ぶりに連絡が取れました。
奥野君とも連絡してみようかと思います。








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