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鷹匠へ = 上野公園の裏側を歩く = [旅行・探訪]

 
No.4818(So-net 2530+Diary 2288) 2020年Blog WebDiary Since 2002



1月12日(日) 6:39

久しぶりの日の出前の大森駅です。



連休の中日ですから、皆さんまだ目が覚めてません。(笑)



トウチャコー!

鶯谷駅です。



7:09

誰もいない(笑)

線路の上は墓地です。はたしてどこの寺院でしょう。



鶯谷駅

この日の天気予報は曇り。

だから、蕎麦屋に行こう!と思いたったのです。(笑)



鶯谷も何でも来てます。




2014年11月3日 Googleフォト

これが鶯谷の居酒屋。



鶯谷はタクシーの駅待ちの多いこと!

ホテル帰りの客をねらってるからかな??



鶯谷駅の裏側です。

ここにもタクシーの駅待ちの列の枠が道に書かれてます。



左が東京国立博物館、右が寛永寺です。



東京国立博物館の裏側なのですが・・・



国立博物館に庭園なんてあるの?



左が東京国立博物館、右が寛永寺。



左の国立博物館側をのぞくと



趣のある建物が見えます。




東京国立博物館の本館北側には、四季折々の花や紅葉に彩られる庭園があります。春の桜の季節と秋の紅葉の季節には庭園全体を開放いたしますので、自由に散策していただけます。
東京国立博物館は寛永寺の境内であった土地に建てられたもので、庭園ももとは寛永寺の一部でした。
東京国立博物館 - 来館案内 構内マップ 庭園・茶室

日本庭園があるとは知りませんでした。

いつか来てみます。



そして、ここが寛永寺です。



徳川家の菩提寺の一つで(もう一つは芝の増上寺)

寛永寺と言えば、戊申戦争の彰義隊との一戦、上野戦争のあった場所です。



最近読んでる本「 花神 」= 司馬さんの最高傑作だ。=

上野戦争と言えば、大村益次郎です!

詳しくは「花神」をぜひ読んで欲しい!(笑)


2015年2月15日撮影

上野戦争というと、上野公園あたりを思い浮かべるかも知れませんが

この寛永寺あたりが主戦場ではなかったかと思われます。


江戸時代後期、最盛期の寛永寺は寺域30万5千余坪、寺領11,790石を有し、子院は36か院に及んだ(現存するのは19か院)。現在の上野公園ほぼ全域が寛永寺の旧境内である。最盛期には、今の上野公園の2倍の面積の寺地を有していたというから、その規模の大きさが想像できる。たとえば、現在の東京国立博物館の敷地は寛永寺本坊跡であり、博物館南側の大噴水広場は、根本中堂のあったところである。
しかし、上野の山は、幕末の慶応4年(1868年)、彰義隊の戦(上野戦争)の戦場となり、根本中堂をはじめ主要な堂宇を焼失。残された建物は五重塔、清水堂、大仏殿などだけで大半の堂宇が失われた。
寛永寺 - Wikipedia

蕎麦を食べに来て、思いもよらず寛永寺を見ることが出来ました。



おおっ!

この紋所が目に入らぬか!(by 水戸黄門)

三つ葉葵です!
葵の御紋です。



先へ進みます。



道が汚い!

たぶんタクシーが休憩に使ってるんだと思うけど
もう少し綺麗にして欲しいよね。(笑)



この界わいにいろいろな施設があります。

この東京文化財研究所は黒田清輝と関係してるみたい。
そして、黒田清輝の展示会も開催してる。

知らない事ばかりだ。

黒田清輝と美術研究所



社会教育実践研究センター

ふーん。

国立教育政策研究所 National Institute for Educational Policy Research



次なるこの立派な建物は??



恐れ多くも葵の御紋!(うそ)



芸大音楽学部の音楽高等学校でした!

どうも元美大受験生としては、芸大は恐れ多くて(笑)



そしてここが寛永寺のいまの根本中堂です。



この根本中堂は

明治12年(1879年)、川越喜多院の本地堂を移築したもので、
寛永寺本来の建物ではない。

だそうです。



すると、大村益次郎が

加賀藩上屋敷(現在の東京大学構内)から不忍池を越えて
佐賀藩のアームストロング砲を放った先はここではないのか?

上野戦争 - Wikipedia



上野桜木まで出てきました。



と言うことで

この先は明日のこころだ~(笑)








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