福島市探訪 その1= 会津藩と福島藩 = [旅行・探訪]
2019-08-26 No.4979(So-net 2691+2288) 2018年Blog WebDiary Since 2002
いまの日韓関係を論じるときに、海外の人たとえば
欧州人は日本と韓国の歴史や地勢的な違いが分からず
もっと言えば、中国と韓国と日本の違いも分からない。
だから、ましてや日韓関係など理解する人はほとんどいない。
そういう話を聞くにつれても、同じように日本の人もたとえば
バルト三国の違いを答えられないということがあると思うのです。
それは海外の事だとしても日本人が
日本の諸藩の成り立ちや、県民性をどこまで知っているだろう。
たとえば会津藩と福島藩の違いや、違う藩だと言うことも知らず
福島の情景を思い浮かべているのではないだろうかと思うのです。
奥会津 只見川の旅 その4=白虎隊と戊辰戦争とさざえ堂= 2018-08-17 |
日本を語るとき会津藩は三百近い諸藩のなかでも
歴史的にも燦然と輝き、指折り数える雄藩でした。
それを現地に行って少しは理解したつもりでした。
ところが
松平容保(まつだいら かたもり) - Wikipedia |
容保がなぜ京都守護職に就任したのか(させられたのか)
どうしても解せないところがあったのです。
ところが、この本がやっと解き明かしてくれました。
それは徳川二代将軍秀忠の側室に子供が生まれ、ただ
正室の江はヒステリックなまでに秀忠の浮気を監視し
その結果秀忠は生まれた子供を隠すため信州高遠へやり
江が死んだのち、三代将軍家光が秀忠の子供を信州から
会津二十三万石の大名にし、御下問の冷遇を受けて名前を
徳川でなく松平としたのが会津松平家の始まりだったのです。
そうか!徳川の直系が会津松平家の藩祖だったのか?!
容保がなぜ京都守護職になったいきさつは省くがとにかく
会津藩の生い立ちを知れば、戊辰戦争での怨念が理解され
太平洋戦争ですら、戊辰戦争の敗戦の深刻さには及ばない
そんな会津の怨念が日本の歴史を紡いでると分かったのです。
そうしたいくつもの諸藩の歴史が県民性を日本の国民性をも
作り出していると言うならば
何百年と続いた歴史ある会津と比べてはたして
いざ福島市に行くに当たって、福島藩がどうであったのか
全く知らないことに気づいたのです。
会津藩の怨念が福島藩、いまの福島市とどう関わったのか
分からない様が福島市を歩いてみようと思わせたのです。
8月24日(土)
東京駅発8:08の新幹線に乗りました。
やはり田んぼは日本の風景です。
心が癒されます。
友情は素晴らしい。
友は毎日涙にくれてると語ってました。
僕には何も出来ない。
でも、来年にでも
[ 1986] 新野地温泉「 パンツスキー 2010 」記入日時 2010年03月01日 |
来年にでも新野地温泉に行こう!と話してます。
僕の病気もその頃にはなんとかしたいです。
頑張ります。
友はその頃でもまだ涙してると思います。
でも、それが供養だと思います。
温泉に行こう!
と言うことで、
阿武隈川に面した御倉邸(おぐらてい)にやってきました。
スキーでは福島になんども来ましたが
福島市をこうしてあらためて歩くのは初めてで
それなら県庁があるいったいを歩けば、福島藩
福島市の生い立ちが分かるかもと思ったのです。
すいません!前置きが長すぎたので御倉邸は
明日のこころだ~(笑)
わがワイフ殿の実家が中通りにあって、自分も福島県には相当な馴染みを持つようになりました。
そこで気がついたのは、福島県は北海道、岩手県に次いで大きい県であり、普通は浜通り、中通り、そして会津と別けて歴史・風土・人となりの違いが語られてきましたが、3.11以降はお互いに乖離が生じた様に感じております。
大き過ぎるせいもあるのでしょうが、福島県としての一体感が薄くなり、中通りと会津は浜通りに対しての視線が厳しくなった様に感じています。
人の感情って複雑です。
お身体ご自愛の程を・・・
by LargeKzOh (2019-08-26 11:39)
LargeKzOh さん、コメントありがとうございます!
今回のブログにぴったりのコメントです。
勝手ながら引用させてください。
ブログ書き終わったら、またコメントさせてください。
よろしくお願いします。
by いであ (2019-08-27 08:20)
LargeKzOh さん
今日のブログはいかがだったでしょう。
僕は3・11以降、福島県人はまとまったと思います。
反原発です。
この気持ちを福島に住む友達の言葉やメールで感じたのです。
by いであ (2019-08-27 11:52)