No.4768(So-net 2480+Diary 2288)
2017年Blog WebDiary Since 2002
10月7日(日) 6:31
東京を5時に出て、いよいよ茨城・千葉の旅の始まりです!
3連休の中日
渋滞もなく、ここまで来ました。
友部SA(下)・常磐自動車道 サービスエリア ドラぷら
7:24
常磐道の北茨城ICを下りました。
海だ~(笑)
北茨城ICから東に進むとすぐに太平洋です!
JR常磐線と国道6号線を越えます。
6号線は日本橋から仙台市へ至る道で
江戸時代の水戸街道、奥州街道です。
天気は快晴!
でも、暑かった~(笑)
岬の向こうに目的地の六角堂があります。
象の鼻みたい
少し調べたけど、そういう地名は出てこない
手前は大津港、岬の向こうが五浦(いづら)海岸
岬の向こうにある六角堂へ向かいます。
7:40
大津漁港まで来ました。
正面に漁協直営の食堂がありましたが
11時からなので、無理(笑)
大津漁協直営市場食堂
7:45
最初の目的地、六角堂に来たのですが閉まってます。(笑)
仕方ないので、外から見ることにします。
五浦六角堂 (いづらろっかくどう)(北茨城市)
岡倉天心は、1903(明治36)年の5月頃、飛田周山の案内で五浦を訪れ、この地をいたく気に入りました。天心は、二年後には六角堂をかまえ、冬はボストン美術館勤務、夏は五浦の海に遊び、国際的な活躍の拠点としました。1906(明治39)年11月には、日本美術院を五浦の地に移し、岡倉天心、菱田春草、下村観山、木村武山が家族と共に移り住んで制作に励み、近代美術史に輝かしい一ページを刻んだのです。
利用可能時間 4月〜9月の期間 8時30分〜17時30分
|
五浦六角堂 (北茨城市) 観光いばらき
|
この公園から見えるそうです。
岡倉天心の美術院跡地です。
少し上がると見えました!
ところが、
六角堂は2011年の震災の津波で姿を消して
2012年に再建されたものなのです。
天心が見込んだだけあって、素晴らしいロケーションです。
一部は天心が入江を爆破させて人工的に作ったそうです。
近くに展望台がありました。
木が邪魔して、下からの方が眺めがいい。(笑)
でも、眺めは良くて気持ちいい~(笑)
左に見えるのはいわき市の海岸です。
六角堂のすぐ北はいわき市なのです。
灯台がある!
大津岬灯台です。
この展望台はけっこう高かったです!
岡倉天心の美術院に行ってみます。
当時のまま残されてるようです。
1898年(明治31年)、岡倉覚三(天心)が東京美術学校を排斥されて辞職した際に、自主的に連座して辞職した美術家達(橋本雅邦、六角紫水、横山大観、下村観山、寺崎広業、小堀鞆音、菱田春草、西郷孤月)がいた。彼らは岡倉の計画する美術研究の構想に賛同し、岡倉がそれをまとめる形で美術研究団体としての日本美術院を谷中大泉寺にて結成した。
1905年(明治38年)に茨城県・五浦海岸へ別荘(六角堂)を建設した岡倉は、翌1906年(明治39年)に第一部(絵画)をそこへ移転させる。しかし当時の岡倉はフェノロサの紹介でボストン美術館中国・日本美術部に入っており、五浦とボストンを往復するうちに同院への興味を失っていく。
1910年(明治43年)、岡倉がボストン美術館中国・日本美術部長として渡米したことにより、同院は事実上の解散状態となる。
|
日本美術院 - Wikipedia |
明治23年。東京美術学校(東京藝術大学の前身)の校長に就任した岡倉天心(竹中直人)のもとで、横山大観、菱田春草、 下村観山ら学生は、互いに切磋琢磨し、創作活動に励んでいた。美術界のエリートコースを歩んでいた天心であったが、勢力を増す西洋画派との対立が激化、上司である九鬼男爵(渡辺裕之)の妻・波津子(神楽坂恵)と道ならぬ恋に落ちた天心を中傷する怪文書がばらまかれ、東京美術学校を排斥されて辞職へと追い込まれる。
新たな日本画の創造を目指し東京・谷中に日本美術院を立ち上げるも、彼らの画法に対する国内での評判は芳しくなく、経営難に陥る。
天心は、新天地を求め茨城県の五浦に「六角堂」を建設し、翌年日本美術院も移転。志を共にした大観、春草、観山に武山も加わり、五浦の地で創作活動を開始する。
それは同時に、新たな日本の美を生み出すための、苦難の日々の始まりでもあったー。
|
ストーリー 映画 『天心』
|
なるほどね。
そのまんま、ここでロケしたんだね。
六角堂をあとにします。
8:15
JR常磐線と平行して6号線を南下します。
茨城の旅の続きは明日のこころだ~(笑)
コメント 0