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忘れることない記憶 [東日本大震災]


No.3504(So-net 01+02=1216 + Web Diary 2288) 2014年Blog

3月11日を迎えました。

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生まれて初めて震度5強の地震は、今でも忘れません。
工場の隣の塀が倒れ、工場にも一部被害がありました。

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僕の「地震酔い」防止器です。もちろんいまはありませんが
3・11以後いまでもちょっとの揺れにビクビクします。

5強でこれほどなのだから、被災地の方々がどうだったのか
想像を絶するものなのは、本当によく分かります。

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2011年3月20日の渋谷です。

3月11日から日本中の人が引きこもりのように家にいて
被災地のテレビばかり見ていたのだと思います。

そして僕はやっと20日に仕事で渋谷に出てきました。

東急、西武などのデパートは外資系のショップが閉店し
これが渋谷かと思うほど人がいませんでした。

この写真は、一見すると普通の写真ようなのですが
街頭の大きな液晶画面も消えたままだったのです。



そして僕は5月にコナちゃんらとボランティアに行きました。
田老地区の様子は今での脳裏に焼き付いています。



ボランティアは宮古でヘドロの撤去などをしましたが、
大したことは出来ませんでした。

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かわいキャンプ(Blog)
 
夏には「かわいキャンプ」に参加しました。

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かわいキャンプで知り合ったTetsuroくん
今でも付き合いは続いています。

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大槌町菜の花プロジェクト支援会」「大槌町菜の花交流会2012
花井 千美 さんにお借りした大槌町の写真です。

また大槌町に必ず行きます!
それが僕らに出来る唯一のことだと思うのです。

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song4u

もう4年になるんですね、早いなあ。
3.11の20日後に、ぼくは東京を離れました。
福岡に戻ってもう4年ってことです、本当に早いなあ。

あの日のことは忘れないです。
震度5強は以前、福岡でも経験しておりますが
まったく比較になりません。
4年かあ、あっという間ですね。
by song4u (2015-03-11 08:02) 

いであ

song4uさんはこの日はどうされたのですか?
(以前に聞いいてたらごめんなさい)
多くの方が自宅に帰るのに何十キロも歩かれてました。
僕はガソリンスタンドにガソリンがなくなり何時間も並びました。
翌日が土日だったので、津波や原発の映像見ながら、
日本はどうなるのだろう?と暗くなっていました。
そして地震には本当に敏感になり、ちょっとの揺れでも今は怖いです。
4年は短いです。まだまだ忘れる事が出来ません。

by いであ (2015-03-11 08:24) 

song4u

震度5強の地震、ぼくは2回経験しています。
一度目は2005年3月20日(日)の福岡県西方沖地震。
この時は日曜にも関わらず事務所で仕事をしており、「ゴー」という音、
そして人生で経験したこともない凄まじい揺れに見舞われました。
この後、人生で二度目の震度5強、東日本大震災の震度5強を経験
するわけですが、揺れだけで言えば、恐らくビルが古く免震構造では
なかったからでしょう、福岡県西方沖地震のほうが圧倒的に凄まじく、
まさに恐怖に打ち震えた数分間でした。

人生二度目の震度5強。
それはタマタマ会議で来ていた品川オフィスで遭遇しました。
15時前のドカン! そしてその後も幾度となく余震が続きましたよね。
会議は途中打切りとなり、全国から集まっていた会議参加メンバーは
エア便で&新幹線で帰ろうとしたのですが、エア便組はほとんど全員が
羽田で足止め、帰れなかったと聞きました。

会議打切り後、ぼくは新馬場の自分のオフィスに戻りました。
当時のポストは管理系でありまして、社員の安否を確認する部門に
いましたから、当日は23時前後まで会社にいました。
刻々入る情報は、不安になる一方のものだったと記憶しています。
こんな時こそ、大切な役割を果たすべき公共交通機関が、イの一番に
駅のシャッターを閉じたのには、怒りを通り越して呆れ果てました。
当時の最寄り駅だった京急・青物横丁駅の降りているシャッターを見た時、
これが公共交通機関の正しい姿なのだろうか?と疑う自分は絶対に
間違っていないと確信したのを覚えています。

3.11。
そうなんですね、その日は金曜日でしたよね。
もし金曜じゃなかったら、皆さん、無理して帰ろうとしなかったのでは
ないでしょうか。だけど金曜ですからね、会社に残っても仕方ない。
というわけで、ぼくも新馬場から糀谷まで歩いて帰る決断をしました。
今なら、こんな距離は「屁」みたいなものですが、あの頃は歩くことに
対するハードルは極めて高く、一大決心で臨んだ記憶があります。

京急線と並行して走る第一京浜(国道15号)。
日付も変わろうかというのに、大渋滞でまったく動きません。
その横を、こんな時刻にこんな大勢の歩行者?と思うぐらいの大群衆。
あんな時刻のあんな光景は、あの時が初めての経験でした。
信号機が消えた交差点は、警察官が手動で交通整理をしていました。
早々に自分たちの身の安全だけを確保してシャッターを閉ざした
公共交通機関があるかと思えば、第一京浜沿いの多くの民間施設が
休憩所やトイレを自ら解放していたのが何とも皮肉に感じました。

途中、小腹が空いてコンビニに入ったのですが、手軽に食べられる
ようなものはすべて売り切れ状態でした。
みんな考えることは同じ、そりゃそうですよね。
蒲田近くの牛丼屋さんだったかなあ、ようやく座れる場所を見つけて、
遅い晩メシにもありついて、ホッと一息つけました。
そんなに寒いとは感じてなかったと思うけど、その時、あったかい
ご飯はありがたいなあ、とつくづく思いました。

糀谷のマンションに辿り着いたのは、1時半ぐらいだったと思います。
マンションは7階建ての5階だったと思うのですが、部屋の中に異変は
ほとんどありませんでした。唯一、電子レンジの上に置いてたオーブン
トースターが床に転がっていたぐらいが関の山だったでしょうか。
50吋のテレビも、トールボーイのスピーカーも何事もありませんでした。
翌日、起きたのは昼直前だったと思います。
本当は午前中に社員の安否確認があったのですが、どういうわけだか
ひどく疲れていて、まったく起きられませんでした。

もう4年前の記事になるんですね。
昨日のことのようですけど。
http://song4u.blog.so-net.ne.jp/2011-03-12
by song4u (2015-03-11 22:58) 

いであ

song4uさん、わざわざ長文ありがとうございました。
読みながら、当時の様子がまざまざと蘇ってきました。
僕はいつものように赤坂宿舎から戻り、工場で地震にあったのですが
そこから営業所を回りあとは家に待機していました。
いつも赤坂宿舎には二人で行くのですが、一人は宿舎から戻ったのが
いつもは5時ころなのに、あの日は7時になり、彼は会社に泊まりました。
そして僕は何人もの友人が家に帰り着くまで、LINEでやりとりして
夜中まで友人が家に着くまでやりとりしていました。
song4uさんは15号線を歩いて帰られたのですね。
ここによく書かれるpaulaさんは15号線と環七が交差する付近のマンションに
住まわれて、その夜中まで続く人の波を見ていて、後で書かれてました。
song4uをご覧になってたのかも知れません。(笑)
そうです。金曜日に地震があり、土日ずっとテレビを見ていたのです。
僕らも精神的にずいぶん落ち込みましたが、被災地の方の苦労を思うと
なんとも言えない気持ちになりました。
その後の原発で、余計でしたね。
こうして思い出すことが、良いのだと思います。
今年の夏、もう一度、今度は自分の車でゆっくり被災地を回ってみます。

by いであ (2015-03-12 04:54) 

paula

あの日は夜に横浜みなとみらいホールで、辻井伸行&佐渡裕&BBCのラフマニノフを聴きにいく日で楽しみに、生徒さんのレッスンをしていました。
地震…だんだん強くなり、母の部屋の人形ケースが落ちて割れました。生徒さんは大人でしたので、そのてんのでその点は助かりました。揺れがおさまり平和島の自宅に母を連れて行き、テレビに映る現実とは思えない映像に言葉も無くくぎ付けでした。
song4uさんと逆に、主人は糀谷の会社から、女性スタッフの安全の確保の後帰宅しましたが夜中の2時を過ぎていました。舅姑はスカイツリーの近辺にバスに乗っていました。帰宅は翌日の朝の4時。
メールも電話も繋がらず、本当に心配でした。そんな中、日本橋に勤めていた親友から電話。無事だったこと、声が聞けたことに心強かったです。男性の生徒さんの「無事ですか?」のメールには泣けました。
song4uさん、いでちゃんのおっしゃる通り、第一京浜を歩かれている方を見ながら、大変なことになった…これからどーなるんだろうと重く暗い気持ちになりなしたが、同時に、東京は大丈夫だ、でも東北は津波は…
昨日の事のように覚えています。
私もちょっとの揺れだけでとても怖いです。

そして人間の底力も知りました。
by paula (2015-03-12 08:59) 

いであ

paulaさん、長いコメント本当にありがとうございます。
お話を聞くとそれぞれ大変な思いをされた3月11日だったのですね。
と言っても被災者の方のそれとは比較になりません。
そして今なお多くの方が不便な生活を強いられています。
身内の方を亡くされたうえ、狭い仮設住宅でどんなに不便だろう。
いろいろ思いますが、簡単に慰めの言葉も逆に失礼かと思ってしまいます。
また別の事も思います。
その年の5月に宮古に行った時、街は思いの外普通だったのです。
ここが被災地?と思うほど、スーパーで普通に買い物していました。
そうかと思うと、港付近はそれはひどいありさまです。
そのギャップに驚きました。
何を言いたいかと言うと、その人その人で被災地を、被災者を思えば
良いのだと思ったのです。
僕は今回のBlogで、song4uさんへの返事で今年被災地に行く事を決めました。
何の足しにもなりませんが、忘れない事が一番だと思い訪ねてみます。

by いであ (2015-03-12 09:28) 

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