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仏教のおおらかさ [文化・宗教]

 
平成23年12月25日(日)月歴12月1日 2010年日記
 
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いま僕の傍らには「私訳 歎異抄(五木 寛之)」がある。

歎異抄(たんにしょう)は、鎌倉時代に親鸞の弟子唯円の著とされる。
親鸞滅後に浄土真宗で湧き上がった異議異端を嘆いたものである。

歎異抄は梅原猛を初め多くの方の著作があるが、僕は「親鸞」以来
五木寛之をずっと読んできた事もあり、この本を選んだ。

歎異抄は各項目と序章、後述の20項目からなるが、各項目はごく短い。
その「私訳 歎異抄」は五木寛之が訳した20項目が前半にあり、後半に
歎異抄の原典、東大名誉教授の五味文彦氏の解説からなっている。

僕はこれを毎日読むわけではない。しかし傍らにつねに置いてある。
すると心が穏やかになる。気持ちがきつい時は特にそうだ。

僕は仏教とはなんとありがたい教えなのだろうかと思う。
そう思おうと、仏教は宗教とは違うような気がするのだ。

儒教もそうなのだが、儒教も宗教としての一面があった。
しかし、やはり儒教は「教え」だ。
人生における「教え」だ。

それは仏教も同じだ。
釈迦は道理により正しい習慣を身につけ、規律正し生活をすれば
誰でもがブッダになれると説いただけだ。

だからこそ、他の一神教のように他を排他することなど必要ない。
だからこそ、仏教と神道は一緒にあり、八百万の神とも同居できる。
だからこそ、仏教国の日本では、クリスマスさえも一緒に祝えるのだ。

うちの菩提寺は真言宗のお寺だから、親鸞の浄土真宗は他宗派だ。
親鸞を愛読し、歎異抄を傍らに置くなど、他の宗教ならどうなのだろう。

キリスト教なら、カトリック信者はプロテスタントの教義は読まないだろ。
イスラム教なら、シーア派信者はスンニー派とは相容れないだろう。

そして僕は毎週のように臨済宗の禅寺に行って瞑想にひたる。
なんとも素晴らしい!この懐の深さ。なんとおおらかなのだろう。

さて、今日もこれから「龍雲寺 洗心坐禅会」に行ってまいります。
少し遅れたが、それでも受け入れてくれる。これもありがたい!

いま気温は3℃。本堂は外とまったく同じ気温だ。行ってきます!

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