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内的世界と外的世界 [文化・宗教]

   
2011年10月10日(月)月歴9月14日 2010年日記
  
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龍雲寺 洗心坐禅会」座禅が本当に楽しみになってまいりました。
まさに心が静かになるのです。

座禅は難しくはありません。「いろいろな考えが浮かんで無になれない」と
よく聞きますが、僕にはそんなに難しく考える事はないように思えるのです。

大陽寺(Blog)で初めて座禅をした時も、僕は宇宙を感じる事が出来ました。
ゴーと地球の自転とともに自分が猛烈なスピードで移動するのを感じたのです。

昨日は座禅のまま、胡座の姿勢で宙に舞い上がるイメージを持ちました。
自分が胡座の姿勢のまま反転して宙返りをしていました。

もちろん、ほんの一瞬。もしかしたら、それは夢だったのかとも思います。
座禅では目は閉じません。半眼にして1m先の視界があるようにします。

しかし一瞬だけ、その意識はなく、目が閉じてる時があるかも知れません。
この一瞬さっと流れるイメージがあるのです。それが僕には宇宙なのです。

「悟りを開く」とか「深い瞑想に入る」などと聞きます。しかしそれは難しいと
僕は思うのです。どんなに熟練された方でも、走馬燈のように思いが回る。
そういうものだと思うのです。
座禅は、僕は難しく考える事はないと思うのです。
もっと素直に簡単に考えると、本当に静かな時がもたらされると思うのです。

僕は二十歳でアフガンから戻って、書いたレポートに「内的世界と外的世界」
そういう表現をしてたのですが、座禅はまさに内的世界と外的世界なのです。
その一部を書きます。(Afghan日記

「 旅行を終えて 」
 (前略)
 旅行にもそれぞれのスタイルがあるのと同様に、人にはそれぞれの生き方がある。それは彼が感じようが感じまいが、その人間はその生き方をもってして、生きているのである。たとえば、人が何かを決定する時に、その人はいままでの自分の経験から学んだもの又、それから生じた社会的要因の分析から、1つの決定を下すのであるが、その元となる経験及び知識が、統合され、集約されたもの、又はそれらが雑多なままで一つの“かたち”を成した時に、それらはその個人の人生観となる世界観として生きて来るのである。そして、その日々の生活はそういった人生観等の
内的世界から、言語等の手段を用いて、外的世界の現象に訴えかける事によって成り立っており、つまり現実の生活とは外的世界の現象の積み重ねにすぎないのである。そしてそれの現象面を人々がいかに対処するかがその人を“位置づける”唯一のものなのである。“全てに対する位置”こそが自分の書かんとする始めであり、全てであるが、しかしこのことが全くの“誤魔化しでしかない”(この事は重大な事だが)こともふまえ、それは逆に“全てに対する位置”が現象の世界をも規定(あるいは決定)するものであり、人間はその世界を逃避することが出来ない(内的世界と外的世界、二者が互いに存在して初めてその人間は生きているのである。)が為に、それを度外視して、その世界に限定して生きなければならないという宿命を持っているからである。
 (後略)


あの頃は生意気な盛りで、なんとも抽象的な事を書いたと思っていましたが
いま思うと「内的世界、外的世界」。これこそが座禅の世界だと思うのです。

なんとも不思議です。座禅しながら「内的世界、外的世界」を考えるのです。
そうです。座禅中もいろいろな事を考えるのです。それでいいと思うのです。
いろいろに想いをはせながら「内的世界、外的世界」を感じるのです。

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この写真は、アフガニスタンのキャンプ地での写真です。(Afghan日記06
僕の好きな写真の1枚です。あの時、まさに瞑想中でした。
座禅中にふと、あの頃を思い出したりするのです。

座禅はそのように、いろいろな想いをめぐらして、「内的世界、外的世界」を感じ
静かな心を得られればいいのと思うのです。難しい事はなにもないと思うのです。

日本にはこんなに素晴らしい体験が出来る禅寺が、数多く身近にあるのです。
ぜひ、多くの方に座禅を体感して頂き、静かな時間を持って欲しいと思うのです。

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